はい、今回は奈良県斑鳩町にある「神代古墳(じんだいこふん)」を紹介します。神代古墳は、単刀直入にいって「砂場古墳」なんです。
何を言っているのかよく分かりませんが、もう古墳の見た目が砂場以外に見えません。という訳で、神代古墳がどう砂場古墳なのか紹介したいと思います。
予想以上に砂場古墳でした
神代古墳のある、奈良県斑鳩町に来ております。斑鳩町といえば、かつて「斑鳩宮」がおかれた歴史のあるエリア。聖徳太子がなくなった後も、その一族が引き続き本拠地としており、周辺には聖徳太子にまつわる史跡が数多く存在しています。
法隆寺の北側は山地になっており、いくつもの古墳が存在します。その中でも藤ノ木古墳は、かつて多くの副葬品が見つかった古墳として大きな話題にもなりました。そんな藤ノ木古墳から東へ800mほどの場所に、神代古墳は存在します。
神代古墳周辺は古い町並みが残っており、のんびりと散策できます。ブラブラと歩いていると、神代古墳のある「瀧谷神社」へ到着。ちなみに神社の正式名称は瀧谷神社ですが、地元では「春日神社」という名前で親しまれているようです。
小さな神社ではよくあることなんですが、瀧谷神社は由緒も祭神も分かりません。春日神社という名前からすると春日神である「タケミカヅチ」を祭っているのでしょうか。
この瀧谷神社なかなか独特な形の鳥居を有しており、上部に謎の屋根が取り付けられています。古墳以外に神社もよく巡るのですが、このタイプは初めて見ました。
もう一つ珍しいと思ったのがこの手水舎。水盤に水道が付いていないタイプで、今となっては飾りになっているのですが、整備された屋根が付いています。実際に使われることのない水盤に、屋根までつけてあるのはあまり見かけません。ちなみに水盤の中にはドングリがいっぱい入っていました。
拝殿でお賽銭を入れようと思ったら、賽銭箱がありません。このタイプの拝殿なら、扉に小さな口があり、お金を入れることができるのですが、それすらもありません。地味に規格外なところが多い神社です。
とりあえず神社でお参りをしたので、本命の古墳を探してみるとすぐにみつかりました。
完全に砂場ですね
これを古墳と見破れる人がいたら、エスパーでしょう。今まで見てきたB級古墳の中でもトップレベルのビジュアルです。
どこが古墳なのかというと、天井石が失われ左右の側壁と奥壁が残り、石室内に土が埋まっている状態。写真の手前が奥壁、フェンス側が石室の開口部になっています。ちなみにフェンスの奥も古墳でしたが、いまは崖になっています。
案内板があるので古墳ということがギリギリ分かりますが、これがなければ絶対に古墳と分からないでしょう。
神代古墳は、7世紀中頃に築造された、一辺20mの方墳。現在は南側が削平され、封土も多くが失われています。このような状態なので、副葬品などは分かっていません。
埋葬施設は、横口式石槨。横口式石槨は横穴式石室と石棺が一体化したようなもので、加工された石材を用いて空間を造り、その中に木棺などが収めるようになっています。横口式石槨は数少なく、皇族・高官・有力氏族などに用いられる埋葬施設として知られています。
神代古墳の被葬者は不明ですが、聖徳太子やその弟たちの家系である「上宮王家」に類する人物ともいわれています。神代古墳が築造された7世紀中頃は、聖徳太子が亡くなった少し後の時期。斑鳩の地を本拠地とした上宮王家が、希少な横口式石槨を用いて古墳を築いたというのは、大いに考えられます。
とりあえず古墳は、3分ぐらいで見終わったので、他に見るところがないか歩いていると、境内の片隅にものすごく寂しい公園を発見しました。
寂しい風景をみつめていると、とても悲しくなってきたので、とりあえず帰ることにしました。
まとめ
今回は奈良県斑鳩町にある「神代古墳」を紹介しました。なにがどうなったら、このような状態になるのか不明ですが、なかなかハイレベルな砂場古墳といえるでしょう。砂場のような古墳を見て癒されたいという衝動に駆られたときには、おススメしたい古墳といえます。
という訳で、神代古墳の紹介はこの辺で。次回はまた別の、砂場古墳を紹介します。
神代古墳詳細
古墳名 | 神代古墳 |
住所 | 奈良県生駒郡斑鳩町龍田3丁目9−8 |
墳形 | 方墳 |
一辺 | 約20m |
高さ | 不明 |
築造時期 | 7世紀中頃 |
被葬者 | 不明 |
埋葬施設 | 横口式石槨 |
参考資料 | 案内板 |
案内板
神代古墳は、北東からのびる丘陵の先端部の南向き斜面に立地していて、瀧谷神社境内には、「コ」の字形に配置された3枚の板石が地表面に露出しています。石材は花崗岩で、上面が平らに加工されており、側面の内側も同様に加工されていると思われます。これらに石は石室の一部で、このうち西側の石は外側(西側)に傾いていますが、元は東側の石と同様に垂直に立っていたもので、北側の石が奥壁(約1.6m)、南側の東西の石が側壁(東:約2.5m、西:約2.1m)です。これらの石の上には本来、天井石があったものが取り去られ、その内部が土で埋まってしまったものと考えられています。なお、南側は崖面となっているため、南側に石が続いていたかどうかなど詳しいことはわかっていません。
出土遺物については知られていないため、いつ頃につくられたか明らかではありませんが、花崗岩を切石状に加工していることや、東方にあった「竜田御坊山古墳群」の存在などから、7世紀前半から中頃の古墳と考えられ、斑鳩地方における飛鳥時代を考える上で重要な古墳です。
2019年11月作成
【参考文献】
奈良県立橿原考古学研究所1977「竜田御坊山古墳」
斑鳩町教育委員会1990「斑鳩町の古墳」