はい、今回は大阪府堺市にある「いたすけ古墳」を紹介します。いたすけ古墳は、百舌鳥古墳群に属していますが、世界文化遺産には指定されていません。ただ、堺市における文化財保護の先駆けとなったとのことで、国の史跡に登録されています。
そんないたすけ古墳ですが、古墳から出土した埴輪が、堺市の文化財保護のシンボルマークに採用されています。出土した埴輪が、文化財保護のシンボルになっていると聞いたからには、見に行かずにはいられません。そんなわけで、いたすけ古墳のある大阪府堺市に行ってきました。
いたすけ古墳とは
今回は、百舌鳥古墳群の中央部周辺の古墳を巡りながら、いたすけ古墳へ。いたすけ古墳は、1955年の宅地造成計画により、一度消滅の危機に陥っています。幸い、地元住民の保存活動により造成計画は中止。翌年1956年に国の史跡に登録され、現在に至ります。
一時期、いたすけ古墳にはタヌキの一家が古墳に住み着いていたことで話題になりました。最大時には、11匹ものタヌキが住んでいたとか。そんなタヌキが住まうという、いたすけ山古墳にやってきました。

タヌキはどこですか?
昔ニュースで見た、いたすけ古墳は、木々が生い茂る古墳でした。しかし、行ってみるときれいに整備され、草木は刈り込まれています。さすがにタヌキの一家もどこかへ去って行ったのでしょうか。

いたすけ古墳は、5世紀前半に築造された前方後円墳。前方部を西に向け、三段に築造されています。全長は146mを測り、百舌鳥古墳群の中では8番目の規模。築造時には、墳丘に葺石が敷かれ、円筒埴輪が並べられていたことが分かっています。また、周囲には盾形の濠が巡らされていました。台地の南端に築造されていたため、濠の南側には大規模な堤が築かれていたとのこと。

古墳の周辺には、6基の古墳が存在しました。しかし開発により大半が失われ、残っているのは、東上野芝1号墳と善右ヱ門山古墳のみ。前方部の少し北西には「東上野芝1号墳」が存在します。いたすけ古墳の陪塚の可能性もありますが、築造時期が分からないため関係性は分かっていません。


いたすけ古墳の北側にはかつて「吾呂茂塚古墳」と「播磨塚古墳」が存在しました。吾呂茂塚古墳は一辺25mの方墳で、播磨塚古墳の墳形は不明。どちらも保存活動が行われたようですが、現在は開発により失われています。

また、後円部のすぐ東側には、「善右ヱ門山古墳」が存在します。いたすけ古墳の陪塚とされる古墳では唯一現存する古墳ですが、道路敷設などにより墳丘は大きく破壊されています。こちらも吾呂茂塚古墳と同じく方墳で、一辺28mを測ります。出土した円筒埴輪の型式から、いたすけ古墳と同じ5世紀前半に築造されたとのこと。


善右ヱ衛門古墳の東側にも、無名塚19号墳、20号墳、21号墳の3基が存在し、こちらも陪塚だった可能性があるとのこと。ただ、3基とも既に失われており、詳しいことはわかっていません。

という訳で、いたすけ古墳の周りを歩いてみることに。国の史跡ということで、周囲は整備されて一周できます。

こちらがいたすけ古墳の後円部。詳しい発掘調査が行われていないため、埋葬施設や副葬品については分かっていません。被葬者は不明ですが、時期的には上石津ミサンザイ古墳(365m)の後、大山古墳(525m)の前に築造されています。両古墳の半分以下の規模であるため、大王の墓とまではいかない可能性があります。ただ、周囲に陪塚と思われる古墳が多数存在することから、かなりの有力者の墓であったと考えられます。

この後円部から「三角板革綴衝角付兜」を模した埴輪が出土しています。この埴輪は、かつて地元の高校生が墳丘から持ち去ったものの、寺の住職に叱られて堺市で保管されるようになったとか。そんな兜形の埴輪ですが、現在は堺市の文化財保護のロゴマークとして採用されています。

こちらが、いたすけ古墳の南側。墳丘南側のクビレ部には、造出しと呼ばれる突出部が確認されています。ただ、見た目ではどの辺りが造出しなのかはよく分かりません。

いたすけ古墳の特徴の一つとして、この橋が挙げられます。これは開発により土取り工事を行うために架けられた橋の残骸。墳丘に草木が茂っていた時期には、ここでよくタヌキの姿を見ることができたようです。もともとどのような状態だったのかは不明ですが、経年劣化により橋は完全に崩落しています。

このままの状態にしているのも、撤去に費用が掛かることに加えて、文化財保護の象徴としての意味もあるのかもしれません。もし反対運動がなく、いたすけ古墳が消滅していれば、他の多くの古墳も破壊されていたかもしれません。そういう意味では、いたすけ古墳が破壊されなかったのは、大きな意味があったと言えるでしょう。

そんな訳で、タヌキが見られなかったことは残念ですが、墳丘の姿はとても良く分かる見やすい古墳でした。激写していても「ああ古墳を撮っているんだな」と不審者感も出ることなく撮影できたので、満足して帰ることにしました。
まとめ

今回は、大阪府堺市にある「いたすけ古墳」を紹介しました。地元の古墳保護活動により保存され、出土した兜形埴輪が市の文化財保護のシンボルマークになったという古墳でした。残念ながらタヌキの一家はもう済んでいないようですが、古墳の姿はクッキリと分かり、見やすい古墳ではないでしょうか。
そんな訳で、いたすけ古墳の紹介はこの辺で。次回はまた別の、出土物がシンボルマークになった古墳を紹介します。
いたすけ古墳詳細
古墳名 | いたすけ古墳 |
別名 | なし |
住所 | 大阪府堺市北区百舌鳥本町3丁338番地外 |
墳形 | 前方後円墳 |
全長 | 146m |
高さ | 12.2 |
築造時期 | 5世紀前半 |
被葬者 | 不明 |
埋葬施設 | 不明 |
石室全長 | 不明 |
指定文化財 | 国の史跡:1956年5月15日 |
出土物 | |
参考資料 | ・案内板 ・百舌鳥古墳群をあるく |
案内板
いたすけ古墳は百舌鳥古墳群のほぼ中央にあり、かつて周囲には多くの古墳がありました。墳丘は3段に築かれ、南側のくびれ部には造り出しがあります。前方部は幅が広く、長さが短い特徴的な形をしています。
1955年、宅地造成計画によって破壊の危機に直面しましたが、市民を中心とした保存運動によって国史跡に指定されました。南側の濠の中に残る橋げたは宅地造成のために架けられた橋の名残です。後円部から見つかった衝角付冑型埴輪(市指定有形文化財)は堺市の文化財保護のシンボルマークとなっています。
後円部の南東側には、いたすけ古墳とかかわりある古墳(陪塚)と考えられる善右ヱ門山古墳があります。