はい、今回は奈良県桜井市にある「茅原大墓古墳(ちはらおおはかこふん)」を紹介します。この茅原大墓古墳ですが、日本最古の「人物埴輪」が出土した古墳として知られています。
古墳といえば人物埴輪を思い浮かびますが、古墳から出土する埴輪の多くは円筒埴輪で、人物埴輪はそう多くはありません。しかも茅原大墓古墳から出土した人物埴輪は、「盾持人埴輪」という全国でも100例しか確認されていない珍しい埴輪なんです。そんな訳で、日本最古の盾持人埴輪が出土したという「茅原大墓古墳」を確かめるべく、奈良県桜井市へ行ってきました。
茅原大墓古墳とは
茅原大墓古墳のある、奈良県桜井市に来ています。茅原大墓古墳の北西には、卑弥呼の墓との説がある箸墓古墳など、数多くの古墳が存在。その中で、古墳時代前期に築造されたものは「纒向古墳群(まきむくこふんぐん)」といわれています。

茅原大墓古墳の少し北には、堂ノ後古墳、ホケノ山古墳、宮の前古墳、茶ノ木古墳、北口塚古墳、慶運寺裏古墳など、多数の古墳が存在。築造時期は、古墳時代前期~後期と幅広く、長期間に渡り古墳が継続的に築造されたようです。

茅原大墓古墳は、纒向古墳群の南側に位置し、周辺にはツヅロ塚古墳、ツクロ塚古墳、石神塚古墳、弁天社古墳など複数の古墳が存在します。

そんな訳で、纒向古墳群を巡りながら茅原大墓古墳へ。茅原大墓古墳は、箸墓古墳から、徒歩15分ほどの場所に存在します。纒向古墳群周辺の古墳は放置されたものが多いのですが、こちらの古墳は草木が刈られて整備されていました。古くから「大墓」と呼ばれており、茅原地区にある大墓ということが古墳名の由来のようです。

茅原大墓古墳は4世紀後半に築造された、全長86mの帆立貝形古墳。後円部は3段に、前方部は2段に築成されています。墳丘には周濠が存在し、北側には墳丘につながる土の橋が存在したとのこと。現在周濠は失われていますが、南側のため池は、濠の名残りと思われます。

墳丘には葺石が敷かれており、各段に埴輪列が並べられていたとのこと。墳丘からは、円筒、壺形、蓋形、鳥形、人物埴輪が出土。この埴輪の中で特に注目されているのが「盾持人埴輪」です。

一般的な盾持人埴輪は、墳丘から離れた縁に配置される傾向にあります。盾を外側に向け、被葬者をガードするという意味があったようです。表情豊かな埴輪が多いのも特徴で、怒りや笑いは邪気を払う役割があったとも。茅原大墓古墳の盾持人埴輪も少し笑い気味なのは、そういった意味があるのかもしれません。
盾持人埴輪などの人物埴輪は、主に5世紀中頃に多く出土しています。茅原大墓古墳は4世紀末に築造されており、出土した盾持人埴輪は、人物埴輪の中で最古のものと考えられています。現在この盾持人埴輪は、茅原大墓古墳から少し南にある「桜井市立埋蔵文化財センター」にて保管されています。
ただ、出土した場所が古墳の外側ではなくクビレ部であることや、1体しか見つかっていない、時期的に早すぎる点からも、疑問は残るようです。ちなみに反対側のクビレ部からは、3基の埴輪棺が出土しています。

そんな訳で、茅原大墓古墳に上ってみることに。後円部は3段築成とのことですが、見た感じ4段くらいになっています。どうやらかつて果樹園に魔改造されたときにこのような姿になったとの噂も。

墳丘には景観を損ねないような感じで階段が設置されており、簡単に上ることができます。訪問時は冬で茂みはありませんでしたが、夏場はどうなっているのか。

こちらが後円部から見た前方部。後円部は4段に魔改造されていますが、前方部は削平されたのか、かなり低め。

こちらが茅原大墓古墳の墳頂。おそらくここに埋葬施設があると思われますが、発掘調査が行われていないため詳細は不明。ただ、墳丘で石材が見られないことから、粘土槨との説もあります。

こちらが古墳の南西。段差の側面を見ると、拳大ほどの石を用いた石垣になっていました。これは築造時の姿ではなく、おそらく果樹園に魔改造されたときに作られたものでしょう。

被葬者は不明ですが、地元では「狭穂姫命(さほひめのみこと)」の墓との伝説が残っています。狭穂姫命は第11代垂仁天皇の妃の一人。記録によると狭穂姫命は、兄の「狭穂彦王(さほひこのみこ)」に、垂仁天皇の暗殺を依頼されます。しかし垂仁天皇を愛していた狭穂姫命は直前で躊躇い、全てを天皇に打ち明けることに。その後、兄の元に向かい、共に焼け死んだと伝わっています。
茅原大墓古墳を狭穂姫命の墓とされた理由は不明ですが、垂仁天皇は纒向に都を置いていたことが理由なのかもしれません。ただ、狭穂姫命の活躍した時期と、茅原大墓古墳の築造時期には開きがあり、狭穂姫命の墓である可能性は低いと思われます。
古墳時代前期の纏向古墳群一帯では、200mを超える巨大前方後円墳が多数築造されています。しかし、古墳時代後期に入ると大型の前方後円墳の築造は停止し、帆立貝形古墳である茅原大墓古墳が最大の古墳となっています。これは桜井市周辺の豪族が衰退し、奈良県北部や河内国の豪族が力を有してきたことを表すのではと考えられています。
そんな訳で、整備された古墳を堪能でき、特に変なツッコミどころもないので、満足して帰ることにしました。
まとめ

今回は、奈良県桜井市にある「茅原大墓古墳」を紹介しました。纏向古墳群一帯では数少ない整備された古墳ということで、訪問しやすい古墳ではないでしょうか。墳丘は少し魔改造されているものの、比較的良好な姿を残しており、なかなか見ごたえもあります。案内板も設置されているので、纏向古墳群方面の古墳巡りでは、訪れておきたい古墳の一つではないでしょうか。
そんな訳で、茅原大墓古墳の紹介はこの辺で。次回はまた別の、日本最古の人物埴輪が見つかった古墳を紹介します。
茅原大墓古墳詳細
古墳名 | 茅原大墓古墳 |
別名 | なし |
住所 | 奈良県桜井市茅原 |
墳形 | 帆立貝形古墳 |
全長 | 86m |
高さ | 9m |
築造時期 | 4世紀末 |
被葬者 | 伝:狭穂姫命 |
埋葬施設 | ・主体部は不明 ・埴輪棺3基 |
石室全長 | 不明 |
指定文化財 | 国の史跡:1982年12月18日 |
出土物 | 盾持人埴輪、円筒埴輪・壺形埴輪、蓋形埴輪、鳥形埴輪 |
参考資料 | ・案内板 ・大和の古墳を歩く |
案内板
史跡 茅原大墓古墳
奈良盆地東南部の三輪山麓に位置する茅原大墓古墳は、後円部対してに前方部の規模が著しく小さい「帆立貝式古墳」の典型的な事例として、昭和57年12月18日に国の史跡に指定されています。
平成20年度から24年度にかけて桜井市教育委員会が発掘調査を行い、墳丘全長は約86m、後円部径は約71mであり、後円部は3段、北側に突出する前方部は2段に築成されていることがわかりました。築造時期は出土した埴輪から、古墳時代中期初頭頃(4世紀末頃)と考えられます。
墳丘の斜面は葺石で覆われ、各段の平坦面には埴輪列がめぐっていました。後円部頂の埋葬施設の内容は不明ですが、墳丘上の埴輪を転用した埴輪棺が計3基確認されています。
また墳丘の周囲には周濠がめぐり、前方部北側には渡土堤が存在することが明らかとなっています。
出土遺物としては、円筒埴輪・壺形埴輪のほか、蓋形埴輪・鳥形埴輪などの形象埴輪が確認されました。中でも注目されるのは盾持人埴輪で、墳丘東側のくびれ部に樹立されていたことがわかっています。
盾持人埴輪は古墳を外側の邪悪なものから守る役割を持つとされる埴輪で、関東地方を中心に全国で100例以上が見つかっています。本例はその中でも最古の事例であり、人物をかたちどった埴輪としても最も古<位置付けられます。埴輪祭祀の変遷を考える上で重要な資料であるということができるでしょう。
茅原大墓古墳が位置する奈良盆地東南部は、かつて箸墓古墳など全長200m以上の大型墳が複数築造され、3世紀から4世紀後半にかけての政権の中枢勢力の根拠地であったと考えられます。しかし4世紀末頃には全長約86mの茅原大墓古墳を除いて明確な首長墳はみられなくなり、その勢力が衰退していることがわかります。茅原大墓古墳は、こうした古墳時代の政権勢力の変動を示す古墳としても重要な意義を持っています。