はい、今回は奈良県三宅町にある「アンノ山古墳」を紹介します。謎の盛り土が多い三宅古墳群ですが、このアンノ山古墳も、当然ながら見事な盛り土古墳と化しています。
見事な盛り土古墳があると聞いたからには、見に行かずにはいられません。そんな訳で、奈良県三宅町にある「アンノ山古墳」へ行ってきました。
アンノ山古墳とは
アンノ山古墳のある、奈良県三宅町に来ています。アンノ山古墳は、川西町・田原本町・三宅町にまたがる「三宅古墳群」の一つ。
一般的に古墳は丘陵地や尾根などに造られますが、三宅古墳群は盆地中央部の低湿地帯に築造されたのが特徴。5世紀後半から6世紀前半に築造され、100m以下の小型の前方後円墳で構成されています。
三宅古墳群の被葬者については、この地に存在した大王の直轄地である「倭屯倉(やまとみやけ)」を管理した役人の墓と考えられています。前方後円墳は大和王権につながりが深い人物に用いられることが多く、屯倉の管理者達の墓にも用いられたのかもしれません。
そんな訳で三宅町役場の駐車場に車を停め、アンノ山古墳に向かいます。奈良県遺跡地図によると、アンノ古墳手前に名称不明の古墳があるので、寄ってみることに。
こちらが、三宅町役場から徒歩5分ほどの場所にある無名の古墳(地図ID:11A-0024)。田んぼの中にあるこんもりとした盛り土で、9mほどの円墳です。奈良県遺跡地図では遺物として「土師」とあるだけで詳細は不明。
11A-0024の古墳から南西にも古墳があり、こちらも田んぼに食い込むように残されています。四角い無名の古墳(地図ID:11A-0025)で、一辺18mの方墳とのこと。ちょうど隣のグラウンドで野球の試合が行われて多くの人で賑わっていましたが、謎の盛り土を激写するオジサンへの視線を感じたので早々に撤退。
そんな訳で、謎の無名盛り土古墳も激写できたので、アンノ山古墳へ。5分ほど農道を歩くと、案内板らしきところに謎の盛り土を発見。こちらがアンノ山古墳になります。
誰が所有している土地なのかは不明ですが、墳丘は畑になっているようです。田んぼにある古墳では、よく見かける光景。
2019年の発掘調査により、アンノ山古墳の全長が50mを測り、4mの周濠をもつ前方後円墳であることが分かっています。埴輪は出土しておらず、埋葬施設は不明。
出土した須恵器片から、6世紀中頃以降に築造されたと考えられています。三宅古墳群が、5世紀後半から6世紀前半にかけて築造されているので、三宅古墳群内においては新しい古墳と思われます。
墳丘は、上も周りもかなり削平されており、古墳の感じは全くありません。こんな状態なので、埋葬施設も残っていない可能性も。前方後円墳のくびれ部分もわからず、上からみるとワラジのような姿をしています。ちなみにアンノ山古墳のすぐ南西にある盛り土も上から見ると古墳っぽいんじゃないかと思うんですがどうなんでしょう…
かつては幅4mの周濠が存在したとのことですが面影はなく、ビシッと整備された用水路が隣を流れています。
こちらは北西から眺めたアンド山古墳。どうみても畑の中にある盛り土でした、お疲れ様でした。
ちなみに「アンノ山」という謎の古墳名ですが、由来は不明。最初は、アンノ山古墳の地名が「三宅町伴堂」なので「ばんどう」がなまり「アンノ」かと思いました。しかし調べてみると、伴堂の読み方は、まさかの「ともんどう」。アンノ山の謎は深まるばかりです。
まとめ
今回は、奈良県三宅町にある「アンノ山古墳」を紹介しました。三宅古墳群の中でも特に古墳と分かりにくい、見事な盛り土古墳でした。とりあえず名前の「アンノ山」の由来が気になって夜も眠れません。
そんな訳で、アンノ山古墳の紹介はこの辺で。次回はまた別の、名前の由来が不明な盛り土古墳を紹介します。
アンノ山古墳詳細
古墳名 | アンノ山古墳 |
住所 | 奈良県磯城郡三宅町伴堂 |
墳形 | 前方後円墳 |
全長 | 約50m |
高さ | 1.5m(現状) |
築造時期 | 6世紀中頃以降 |
被葬者 | 不明 |
埋葬施設 | 不明 |
出土物 | 須恵器片、土師器 |
参考資料 | 案内板 |
案内板
アンノ山古墳
現状の墳丘は大きく削平を受け、くびれ部も明瞭でなく、高さも1~1.5m程度しか残っていない。
平成29年度から令和元年にかけて、同古墳の範囲確認調査を実施し、その結果墳丘が約50m、後円部における周濠幅約4mの前方後円墳であることが判明した。
出土遺物は須恵器及び土師器で、埴輪は見つかっていない。
築造時期について、出土した須恵器から判断すると、6世紀中頃以降と考えられる。
三宅町教育委員会