はい、今回は奈良県桜井市にある「慶運寺裏古墳(けいうんじうらこふん)」を紹介します。桜井市北部に位置する纒向古墳群周辺には数多くの古墳が存在しますが、石室に入られる古墳は多くありません。
そんな纒向古墳群周辺で石室に入られる古墳が、慶運寺の境内に存在する「慶運寺裏古墳」です。お寺の境内にあり石室に入られる古墳と聞いたからには、見に行かずにはいられません。そんな訳で、奈良県桜井市にある慶運寺裏古墳へ行ってきました。
慶運寺裏古墳とは
慶運寺裏古墳のある、奈良県桜井市に来ています。慶運寺裏古墳の周辺には、古墳時代前半から後半にかけて築造された古墳が数多く存在します。慶運寺裏古墳の少し西にある「ホケノ山古墳」や、卑弥呼の墓との説がある「箸墓古墳」は特に知られています。これらの古墳時代前期に築造されたものは「纒向古墳群」と呼ばれていますが、慶運寺裏古墳は、古墳時代後半に築造されたためか、含まれていないようです。
ただ現存する古墳の大半は、開墾や開発により墳丘が大きく削平されています。そのため、埋葬施設を見られる古墳は多くありません。その中で慶運寺裏古墳は、横穴式石室に入られる数少ない古墳として知られています。
そんな訳で、箸墓古墳周辺の古墳を巡りながら、慶運寺裏古墳にやってきました。慶運寺裏古墳は、文字通り慶運寺の境内に存在します。慶運寺は浄土宗のお寺で、山号は桜井市らしく「三輪山」。開基については不明ですが、江戸時代に創建されたようです。
山門をくぐると、左側に弥勒菩薩が彫られた石仏が置かれています。実はこの石仏、古墳に納められていた刳抜式石棺の身を利用したもの。
この石棺の特徴として、石材に熊本県宇土市で産出される、凝灰岩の阿蘇ピンク石を使用していることです。一般的な凝灰岩の多くは灰色ですが、阿蘇ピンク石はややピンク味を帯びています。阿蘇ピンク石を用いた石棺は、ヤマト王権とつながりの強い有力者に用いられていたようで、奈良県内でも7例しかありません。慶運寺裏古墳のある桜井市内では、兜塚古墳の石棺に阿蘇ピンク石が用いられています。
ただこの石棺が、慶運寺裏古墳のものかについては分かっていません。慶運寺周辺にはかつて6基前の後前方後円墳が存在したと伝わっており、その中の1つではないかと考えられています。
そんな訳で、慶運寺裏古墳を探しに向かいましたが、なかなか見つかりません。名前からして寺の裏にあることは間違いないのですが、裏手に回ると、墓と盛り土しかありません。実はこの盛り土は、慶運寺裏古墳とは別の「慶運寺裏円墳」とのこと。いや、名前が似すぎてややこしい。
ネットで調べてみると、古墳は本堂の真裏にあるらしく、坂道と本堂の隙間を進むとのこと。これを初見で見つけるのは難易度高過ぎです。
本当にこの先でいいのか疑いながら進むと、無事石室を発見。ちなみに案内板は風化しており、何を書いてあるのか分かりませんでした。
慶運寺裏古墳は、6世紀後半~末頃に築造されたと考えられています。墳形は直径15mほどの円墳と考えられていますが、封土が大きく失われており確かなことは分かっていません。
埋葬施設は、自然石を用いた両袖式の横穴式石室。横穴式石室の羨道部分は大きく失われていますが、辛うじて玄室手前部分だけ残されています。
そんな訳で早速石室内に入ってみると、入口付近に砲弾みたいな物体が落ちていました。テロリストのアジトかと思いましたが、横穴式石室をアジトにするテロリストなら仲良くなれそうな気がします。ちなみにこれが何なのかは全く不明。
こちらが玄室。自然石の平らな部分を生かした作りで、天井に向かうほど上部が狭くなる持ち送りの構造になっています。
石室は古くから開口していたようで、棺や出土品は不明。被葬者は不明ですが、境内の石棺が慶運寺裏古墳のものであるとすれば、阿蘇ピンク石を使用していることから、ヤマト王権とつながりの深い有力者の墓と思われます。
そんな訳で、あまり境内にある石室で、出たり入ったりしているのも怪しさ爆発なので、とりあえず帰ることにしました。
まとめ
今回は、奈良県桜井市にある「慶運寺裏古墳」を紹介しました。纒向周辺では珍しい、石室内に入られるという古墳でした。石室内に砲弾のような物体が落ちている謎の石室でしたが、玄室は良好に残された見応えのある古墳ではないでしょう。
という訳で慶運寺裏古墳の紹介はこの辺で。次回はまた別の、テロリストのアジトかもしれない古墳を紹介します。
慶運寺裏古墳詳細
古墳名 | 慶運寺裏古墳 |
住所 | 奈良県桜井市箸中 |
墳形 | 円墳(推定) |
全長 | 約15m |
高さ | 不明 |
築造時期 | 6世紀後半~末頃 |
被葬者 | 不明 |
埋葬施設 | 横穴式石室(両袖式) |
指定文化財 | なし |
出土物 | 不明 |
参考資料 | 案内板 |
案内板1
慶運寺裏古墳
(桜井市箸中)
外形は円墳と思われるが判明しない。内部主体の横穴式石室は、一部破壊されている。
奈良県教育員会
桜井市教育委員会
案内板2
慶運寺裏古墳と石棺仏
後世の開発によって墳丘が改変され、墳形は不明であるが、南面する円墳と考えられる。石室は乱石積によって築造された両袖式の横穴式石室で、長さ約3m、幅1.8m、高さ約2m、羨道の一部は削りとられている。本堂の西側には建治型とよばれる弥勒菩薩を刻んだ刳抜式石室の身があるが、運慶寺周辺にはかって6基前後前方後円墳が存在していたようで、いずれの古墳に属していたか、はっきりしない。
桜井市教育委員会