はい、今回は奈良県田原本町にある「黒田大塚古墳(くろだおおつかこふん)」を紹介します。実は黒田大塚古墳のある黒田は「桃太郎発祥の地」といわれています。
桃太郎といえば岡山県のイメージが強いですが、黒田と桃太郎にはどのようなつながりがあるのか。そんな訳で、その真相を探るべく、黒田大塚古墳のある奈良県田原本町へ行ってきました。
黒田大塚古墳とは
黒田大塚古墳のある、奈良県田原本町に来ています。田原本町は平野ということもあり、早くから開墾や開発が進み古墳の数は多くありません。そんな理由もあり、黒田大塚古墳は、田原本町における最大の古墳として存在します。
田原本町から三宅町、川西町にかけては、多数の小型前方後円墳が存在し「三宅古墳群」を形成しています。その中で、黒田大塚古墳は三宅古墳群の南端に存在。今回は三宅古墳群を巡りながら、黒田大塚古墳へ向かいます。ひとまず車は三宅町役場に停め、そこから南にある黒田大塚古墳へ。
黒田大塚古墳の「黒田」とは、この一帯の地名で、古事記や日本書紀にも登場します。第7代の高霊天皇が「黒田庵戸宮」の都を置いた場所とされ、黒田大塚古墳の近くにある法楽寺は、黒田庵戸宮跡に聖徳太子が建立したと伝わっています。
ちなみに桃太郎のモデルとして、高霊天皇の息子である「吉備津彦命」が候補にあげられており、この黒田は「桃太郎発祥の地」を称しています。田原本町には川上から男子が流れてきて神様になった伝説や、古くから桃の名所であったことなどが根拠となっているとのこと。なかなか強引な結びつけで、昭和の町おこし的な無理矢理感を感じずにはいられません。
そんな桃太郎発祥の地らしい法楽寺から、少し歩いた場所に黒田大塚古墳が存在します。黒田大塚古墳は、公園として整備されており、古墳に上ることも可能。三宅古墳群では唯一、整備されている古墳ではないでしょうか。
黒田大塚古墳は、6世紀初頭に築造された全長70mの前方後円墳。調査により、墳丘に葺石が敷かれていなかったと考えられています。築造時期は現在より一回り大きく、幅8m、深さ1mの周濠が巡っていました。現在、茶色いアスファルトの敷かれているところが周濠跡とのこと。
奈良時代に周濠は埋没しますが、鎌倉時代に再び大溝が掘られることに。理由は不明ですが、恐らく潅漑用に掘られたのかもしれません。江戸時代に入ると更に溝が増え、古墳が削られて現在の姿に至ります。
周濠からは、円筒埴輪や蓋形埴輪、蓋形や鳥形の木製品が見つかっており、築造時にはこれらが墳丘に並べられていたとのこと。埋葬施設は不明ですが、時代的に横穴式石室ではないかと考えられています。
黒田大塚古墳の被葬者について、詳しいことは分かっていません。地元では、高霊天皇の殯宮(崩御した後に一定期間遺体を祀る墓)との説が残されています。ただ、高霊天皇の時代と古墳の築造時期には大きな開きがあるため、その可能性は低いと思われます。
そもそも高霊天皇は欠史八代に含まれており、実在に疑問が持たれています。しかし記紀に「黒田庵戸宮」と名前が出ていることや、三宅一帯が天皇直轄地であったことから、大和王権とつながりのある人物の墓なのかもしれません。
せっかく来たので、古墳に上ってみることに。周囲はガッツリ削られているため、なかなかの急斜面。こちらは前方部にあたりますが、角が取れて丸くなっています。
小学生の頃なら間違いなく急斜面から上っていましたが、アラフィフなので断念。クビレ部に階段が設置されているので、そちらから上った方が安全でしょう。
築造時は、無数の古墳が広がる光景が見れたのかもしれませんが、現在は民家しか見えません。オッサンが一人で嬉しそうに古墳の上で満喫している姿は、端から見ると怪しさ抜群なので、とりあえず帰ることにしました。
まとめ
今回は、奈良県田原本町にある「黒田大塚古墳」を紹介しました。桃太郎発祥の地ということでしたが、残念ながら桃太郎感を感じることは出来ませんでした。奈良県は平野に築造された古墳はあまり多くありません。平野に整備されて上れるということで、古墳ファンとしては訪問しておきたい古墳ではないでしょうか。
という訳で、黒田大塚古墳の紹介はこの辺で。次回はまた別の、桃太郎発祥の地に作られたらしい古墳を紹介します。
黒田大塚古墳詳細
古墳名 | 黒田大塚古墳 |
住所 | 奈良県磯城郡田原本町黒田347−1 |
墳形 | 前方後円墳 |
全長 | 70m |
高さ | 8.2m |
築造時期 | 6世紀初頭 |
被葬者 | 不明 |
埋葬施設 | 推定:横穴式石室 |
指定文化財 | 奈良県の史跡:1983年3月15日 |
出土物 | 円筒埴輪、蓋形埴輪、木製品(蓋形・鳥形) |
参考資料 | 案内板 |
案内板
県指定史跡
黒田大塚古墳
昭和58年3月20日指定
黒田大塚古墳は、三宅古墳群の南端に位置する古墳時代後期の前方後円墳である。墳丘は二段築成であり、推定される規模は周濠を含め86メートル、墳丘長70メートル、後円部径40メートル、後円部高さ8.2メートル、前方部前端幅45メートル、前方部高さ7.7メートルである。また、墳丘の周囲には幅8メートル、深さ1メートルの周濠が巡る。
周濠の発掘調査では、墳丘に立てられていた円筒埴輪や蓋形埴輪、蓋形や鳥形の木製品が転落した状態で出土していて、本来墳丘に立てられていたと考えられている。埋葬施設は未調査のため不明だが、古墳の築造時代は、そ8の形状や出土遺物から6世紀初頭と考えられる。
牛形埴輪が出土した田原本町羽子田1号墳とともに、奈良盆地中央部の数少ない古墳時代後期の大型古墳として、注目すべきものである。
平成7年3月
奈良県教育委員会
案内板2
黒田大塚古墳の変遷
黒田大塚古墳は、奈良県盆地の低地部に立地する、古墳時代後期(約1500年前)の前方後円墳です。この古墳は、今よりも墳丘が一回り大きかったことや、幅8m、深さ1mの周濠が巡っていたことが分かっています。現在公園内に見られるアスファルト部分は、周濠があった場所を示しています。
この周濠は、約250年の間、水をたたえていましたが、奈良時代の頃には埋没したようです。時を経て鎌倉時代になると、一度埋まった周濠部分に大溝を掘ります。大溝は、墳丘を削った土で埋め立てられており、この頃から墳丘の削平が始まったものと考えられます。
江戸時代には、さらに2条の大溝が墳丘を囲むように掘られます。内側の大溝は一段目を削るように掘削しており、今見るような墳形になりました。