はい、今回は奈良県明日香村にある「都塚古墳(みやこづかこふん)」を紹介します。この都塚古墳は「蘇我稲目(そがのいなめ)」の墓との説がある古墳として知られています。
蘇我稲目は、蘇我氏で初めて大臣(おおおみ)となり、仏教の普及にも大きく関わった人物。都塚古墳がそんな大物の墓かもしれない古墳と聞いたからには、見に行かずにはいられません。そんな訳で、蘇我稲目の墓なのかを確かめるべく、奈良県明日香村にある「都塚古墳」へ行ってきました。
蘇我稲目とは
蘇我氏は、武内宿禰の末裔を称する一族。武内宿禰は、第三代「孝元天皇」を祖とする皇族で、景行・成務・仲哀・応神・仁徳の5代の天皇を補佐した人物。ただ、あまりにも長寿なので実在については疑問も持たれています。
武内宿禰からは、葛城氏、巨勢氏、平群氏、紀氏、蘇我氏などに分かれ、有力豪族として大和王権を支えていました。大王を補佐する役として「大臣」という最高位が存在しましたが、この地位には、葛城氏、平群氏など武内宿禰の末裔が主に就いていました。
後に葛城氏や平群氏が粛正により衰えると、徐々に蘇我氏が台頭。そんな中、蘇我氏で最初に大臣に就いたのが「蘇我稲目」でした。蘇我稲目は、宣下天皇の時代に大臣に就き、次代の欽明天皇にも引き続き大臣として仕えています。娘の堅塩媛と小姉君を欽明天皇に嫁がせ、二人の子供たちからは用明天皇、崇峻天皇、推古天皇が誕生しています。
天皇の外戚として権力を強化する蘇我稲目でしたが、彼には強力なライバルが存在しました。それは大和王権で大連(おおむらじ)の地位にある「物部尾輿(もののべのおこし)」でした。物部氏は、饒速日命を祖とする大和王権の名族で、主に軍事や武器の製造を担っていました。
6世紀初めに朝鮮半島より仏教が伝わると、信仰を巡って蘇我稲目と物部尾輿は対立。蘇我氏は渡来系豪族とのつながりが強く、仏教信仰に賛成でした。しかし物部氏は、神事を司っていたこともあり、仏教信仰には否定的でした。蘇我稲目と物部尾輿は対立を続けますが決着は着かず、次代の蘇我馬子と物部守屋に引き継がれることになります。
蘇我稲目の埋葬場所については記録が残っていませんが、蘇我氏の本拠地であり時代的にも整合性があるという点で「都塚古墳」が有力候補として挙げられています。ただ別の説として、お隣の橿原市にある「丸山古墳」も蘇我稲目の墓との説もあります。
都塚古墳とは
都塚古墳のある、奈良県明日香村に来ています。今回は、飛鳥駅近くで自転車をレンタルして都塚古墳へ。ちなみに市町村名は「明日香村」なのに駅名は「飛鳥」なのは謎。明日香村はアップダウンが結構激しい地形なので、もちろん電動機付き自転車をレンタル。
都塚古墳周辺は、6世紀〜7世紀にかけては蘇我一族の本拠地でした。周辺には島庄遺跡や、坂田寺跡、飛鳥稲渕宮殿跡など多くの遺跡が存在しており、その中でも島庄遺跡は蘇我馬子の邸宅と考えられています。
ちなみに飛鳥稲渕宮殿跡の手前には、子孫繁栄や農耕信仰に造られたとされる「マラ石」もおかれています。なかなかリアルな感じが素敵ではないかと。
都塚古墳は、南から北に伸びる尾根上に位置。古墳名は住所の「阪田小字ミヤコ」から来ていると思われます。また正月元旦には金鳥が鳴くという伝説があることから「金鳥塚」との別名も。
都塚古墳から南に400mほどの距離に、蘇我馬子の墓と考えられている「石舞台古墳」が存在します。どちらも横穴式石室の開口方向が南西を向いていることから、石舞台古墳と都塚古墳の被葬者には、つながりがあるのではと考えられています。
そんな訳で、都塚古墳までやってきました。見た目はこんもりとした円墳に見えますが、本来は一辺41m×42mの方墳。現在は埋没していますが、築造時には1〜1.5mの周溝が設けられていました。
6世紀後半頃に築造されており、蘇我稲目が没した時期とも重なります。墳丘には川原石を用いて6段以上にわたる段が造られる特殊な構造。
この構造は朝鮮半島にもみられることから、被葬者は渡来系豪族との関係が深かったと考えられます。蘇我氏は大和王権において、渡来系豪族を束ねる立場にありました。その意味でも、都塚古墳が蘇我稲目の墓であるとすれば、朝鮮半島の様式を取りれた可能性があるのかもしれません。現在その遺構は確認できず、普通に盛り土。
埋葬施設は開口部を南西に向けた、両袖式の横穴式石室。玄室につながる羨道の天井石は失われていますが、側壁は残っています。
玄室内は柵が設けられて中に入ることはできませんが、柵越しに中を見ることが可能。玄室規模は、長さ5.3m、幅2.8m、高さ3.55m。石室内には玄室から羨道にかけて排水用にバラスが敷かれていました。
玄室内部には二上山産の凝灰岩で造られた、刳貫式家形石棺が1基置かれています。刳貫式家形石棺とは、身と蓋をそれぞれ1個の石材を削り造られたもので、主に身分の高い人物に使用されたと考えられています。
この石棺からは赤色の顔料が見つかっており、身と蓋の接合部に朱が塗られていたようです。また石室内には棺台が残されていることから、木棺が追葬されたと考えられています。
6世紀後半にはすでに前方後円墳が造られなくなり、古墳は小型・簡略化の傾向にありました。この時代に一辺約40mの巨大方墳を築造し刳貫式家形石棺を納めた古墳ということで、被葬者はかなりの大豪族であった可能性は高いのではないでしょうか。
一通り見たので、墳丘上に上ってみました。この先に蘇我馬子の墓とされる石舞台古墳や、住居跡と思われる島庄遺跡が存在します。
蘇我稲目が都塚古墳の被葬者だったとすると、この地より蘇我氏の繁栄と滅亡を見続けていたのかもしれません。
まとめ
今回は奈良県明日香村にある「都塚古墳」を紹介しました。蘇我稲目の霊感を感じることはできませんでしたが、大豪族の墓にふさわしい埋葬施設を持つ古墳といえるでしょう。B級古墳好きとしてはツッコミどころが少ないのが残念ですが、巨大石室と家形石棺は見応え充分な古墳ではないでしょうか。
という訳で、都塚古墳の紹介はこの辺で。次回はまた別の、大豪族の墓かもしれない古墳を紹介します。
都塚古墳詳細
古墳名 | 郡川西塚古墳 |
別名 | 金鳥塚 |
住所 | 奈良県高市郡明日香村阪田小字ミヤコ938 |
墳形 | 方墳 |
全長 | 41m×42m |
高さ | 4.5m |
築造時期 | 6世紀後半 |
被葬者 | 不明 |
埋葬施設 | 横穴式石室(両片袖式) |
指定文化財 | 国の史跡:2017年10月13日 |
出土物 | 土師器・須恵器・刀子・鉄鏃・鉄釘・小札・瓦器 |
参考資料 | ・案内板 ・都塚古墳から出土した赤色顔料について |
案内板
都塚古墳は、正月元旦に金鳥が鳴く伝承があり、金鳥塚とも呼ばれている。横穴式石室に家形石棺を納めた、6世紀後半の後期古墳である。墳形は東西41m、南北42mの方墳で、1〜1.5mの周溝がめぐっている。墳丘は川原石を2〜3石積み上げた石段が、少なくとも6段以上あり、非常に特殊な構造をしている。埋葬施設は南西に入口を設けた横穴式石室で、全長12.2mで、玄室の長さ5.3m、幅2.8m、高さ3.55mである。床面にはバラスが敷かれており、暗渠排水溝が設けられている。この中央部に二上山産の凝灰岩で造った刳貫式家形石棺がある。石棺の長さ2.23m、幅1.46m、高さ1.72mである。出土遺物には、鉄鏃・刀子・須恵器などがある。周辺には、石舞台古墳や塚本古墳などの大型方墳があるが、都塚古墳はこの中で最も古く位置づけられ、しかも、段状の石積みをもつ特殊な構造をしていることから、飛鳥前史を理解するためにも、重要な古墳といえる。