はい、今回は奈良県平群町にある「ツボリ山古墳」を紹介します。一般的に石室内の石棺は、失われていることが多いのですが、ツボリ山古墳は、石棺が2基も残されています。
だから何だといわれても困りますが、石棺が2基も残された古墳と聞いたからには、見に行かざるを得ません。そんな訳で、奈良県平群町にあるツボリ山古墳へ行ってきました。
ツボリ山古墳とは
ツボリ山古墳のある、奈良県平群町に来ています。ツボリ山古墳は、平群町のほぼ中央部に位置し、生駒山系から延びる丘陵上に築かれています。今回は、平群町の図書館で資料を探しにきたついでに、ツボリ山古墳へ寄ることに。
図書館からツボリ山古墳を目指して歩いていると、少し変わった自動販売機を発見。よく見てみると、平群町のゆるキャラである「左近くん」の自動販売機でした。自販機の側面には「不審者を見つけたらその場で110番!」と書かれており、盛り土激写オジサンが通報されないか不安です。
自販機から更に歩くと、飛び出し注意の看板が設置されていました。この手の看板は子供が多いのですが、なぜかこちらは少し悲しげなオジサン。いや、シュール過ぎる。
悲しげなオジサンを後に先に進むと、ツボリ山古墳への案内柱が建てられていました。なぜか「ツボリ山」ではなく平仮名で「つぼり山」になっています。どうでもいい事なんですが、平仮名にされた理由を考えると夜も眠れそうにありません。
丘陵地に築かれた古墳ということで、途中から急な坂道に突入。運動不足なので、かなりヘビーです。
ツボリ山古墳近くには福貴団地というバス停があり、開発された丘陵地一帯は「福貴団地」と呼ばれているようです。
ツボリ山古墳は、丘陵地一帯を開発していた業者が町へ寄贈され保存されたものとのこと。そんな訳で、ツボリ山古墳の周辺は住宅地となっており、古墳の北、西、そして東側の一部は住宅と接しています。東側も一部平削されているようで、側面は擁壁により固められていました。
こちらがツボリ山古墳の正面。古墳の入口は生垣により壁が造られており、事前に知らなければここに古墳があると気付かないでしょう。
生垣の間の奥には案内板が設置されており、ツボリ山古墳の概要を知ることができます。平群町の古墳には比較的詳しい内容が記載された案内板が多く、非常に助かります。ただ何故か見上げる場所に設置されている場合が多く、読みにくいのが難点。ちなみにツボリ山古墳の案内板も、見上げる位置に設置されていました。
更に階段を登って行くと、ツボリ山古墳の石室が見えてきました。
埋葬施設は、南側に開口した横穴式石室。副葬品は盗掘により失われており見つかっていません。石室の形式などから、ツボリ山古墳は7世紀初頭に築造されたと考えられています。
ツボリ山古墳の墳形は不明ですが、20m前後の方墳または円墳と推定。
石室入口は、鉄の柵とトタンの屋根が設置され、牢屋のような雰囲気を漂わせています。
早速石室内を覗いてみると、2基の石棺が置かれていました。石室がむき出しの古墳は、たいてい石棺が失われているので、2基も石棺が残されているのは珍しいのではないでしょうか。
盗掘により破壊されていますが、石棺の面影はかなり残しています。どちらの石棺も、二上山産出の凝灰岩を加工した刳抜式家形石棺。蓋には、長辺に2つ短辺に1つ「縄掛突起」と呼ばれる出っ張りがついています。
奥の石棺は「玄室」に、手前の石棺は「羨道」と呼ばれる玄室へつながる通路に置かれています。おそらく、奥の石棺が安置されたあとに、手前の石棺が追葬されたと考えられています。
被葬者は不明ですが、刳抜式家形石棺の使用例は少なく、朝廷から与えられた公的な棺とする説もあります。そのことから、ツボリ山古墳の被葬者は、かなり身分の高い人物だったと考えられます。
せっかくなので墳丘の上まで登ってみることにしました。ただ予想以上に斜面が急な上、高さがあるため滑落したらかなりヤバそうです。
こちらが命がけでたどり着いた墳頂。偉い人の墓ということで、なかなかいい風景が広がっています。
そんな訳で、下る時の方がはるかに恐ろしく、滑り落ちるとかなりの高さからアスファルトに激突です。何のために住宅地にある盛ら土に命を賭けているのか、自分を問い詰めたくなりました。
まとめ
今回は、奈良県平群町にある「ツボリ山古墳」を紹介しました。石室内に2基の石棺がある珍しい古墳ということで、見応えはあるのではないでしょうか。ちなみに後から知ったのですが、石室入口の柵は開けることができ、中に入ることができたらしいです。まさに一生の不覚。
という訳で、ツボリ山古墳の紹介はこの辺で。次回はまた別の、石室に石棺が2基ある偉い人の古墳を紹介します。
ツボリ山古墳詳細
古墳名 | ツボリ山古墳 |
住所 | 奈良県生駒郡平群町福貴1049−84 |
墳形 | 推定:方墳 |
一辺 | 20m |
高さ | 不明 |
築造時期 | 7世紀初頭 |
被葬者 | 不明 |
埋葬施設 | 横穴式石室 |
県の指定史跡 | 1973年3月15日 |
出土物 | 無し |
参考資料 | ・案内板 ・ふるさと平群再発見18 |
案内板
ツボリ山古墳は、西から延びる丘陵上に築かれた二〇メートル前後の円墳ないし方墳と考えられる。
埋葬施設は、全長八メートル、玄室長四.二メートル、奥壁浜二.二メートル、玄室高二.四五メートルの規模をもつ大型の両袖式横穴式石室で南に開口する。
石室内には、玄室部・羨道部にそれぞれ一つずつお石棺が主軸に沿って安置されている。両者ともに刳抜式の家形石棺で、凝灰岩製である。羨道部の石棺は棺蓋を欠くが、玄室部の石棺は、棺蓋・身共に残存しており、棺蓋に六箇所の縄掛突起をもつことが判った。残りの良い玄室部の石棺は、棺身長二.四五メートル、幅一.一メートル、高さ〇.八メートルで、高さ〇.七メートルの蓋がのる。
当墳の築造時期は、石棺構造や、石室の形式などから七世紀初頭に位置づけられ、平群谷の古墳の変遷を考える上で、学術的に重要な位置を占めるものである。
平成八年三月
奈良県教育委員会