はい、今回は奈良県斑鳩町にある「仏塚古墳(ほとけづかこふん)」を紹介します。
前回、法隆寺方面に行くと称して船塚古墳に拉致された家族は、カフェでスイーツを堪能し一息つきます。しかし散歩と称して、その後別の古墳に拉致されることに。
斑鳩町の中心から離れ、終末期古墳に向かわされる家族の運命はいかに。そんな訳で、斑鳩町にある仏塚古墳を紹介します。
畑の中にある終末期古墳
仏塚古墳のある、奈良県斑鳩町に来ています。先ほども述べたように、家族は法隆寺方面に行くと見せかけて謎の土の塊を見せられた挙句、さらに山方面にある謎の終末期古墳(古墳時代終盤の古墳)を見せられようとしています。
大義名分としては、仏塚古墳の少し北側に松尾寺に続く登山道があり、その下見に向かうというもの。冷たい風が吹きすさぶ斑鳩町を、家族4人で仏塚古墳へむかいました。法隆寺の北側には斑鳩神社以外みるものもなく、ひたすら田畑とため池が続きます。
しばらく歩くと、仏塚古墳の案内板を発見。そこから側道にそれ、田畑が広がる場所に入っていきます。
田園地帯を歩くと、田んぼの中にこんもりとした盛り土を発見。こちらが仏塚古墳になります。盛り土にめがけて突入する姿を見て、家族も何も言わなくなりました。もうダメかもしれません。
仏塚古墳は、6世紀末に築造された一辺23mの方墳。法隆寺の北側から伸びる丘陵地の先端に位置します。
埋葬施設は横穴式石室を有し、副葬品として須恵器、耳環、馬具などが出土。また中世には仏堂として利用されており、仏像の破片や仏具が見つかっております。仏塚古墳という名前も、これが由来とのこと。
6世紀末に築造された古墳ですが、ちょうどこの時期は、法隆寺付近に「斑鳩宮」が造営された時期と重なります。仏塚古墳の被葬者は不明ですが、聖徳太子と関係のある人物との説もあるとのこと。
玄室に続く羨道(せんどう)は一部破壊されていますが、全体的に良好な姿で残されています。
施錠されており石室内に入ることはできませんが、柵越しに自然石を上手く組み合わせた石室を確認することができます。
墳丘にのぼってみると、斑鳩町の光景が広がります。築造された当時は、斑鳩宮も一望できたのではないでしょうか。
気が付いたらあきれた家族が、先に歩きだしていました。そろそろ愛想を尽かされた可能性が急上昇してきたので、ダッシュで帰ることにしました。
まとめ
今回は、奈良県斑鳩町にある「仏塚古墳」を紹介しました。墳丘や石室が残され案内板も設置されているということで、古墳ファンとしては非常に見ごたえのある古墳ではないでしょうか。
ただ私のようなB級好きには、盛り土感や魔改造感がもう少しほしいという気持ちも捨てきれません。もう古墳ファンとしてもダメかもしれません。
という訳で、仏塚古墳の紹介はこの辺で。次回はまた別の、仏堂に魔改造された美しい古墳を紹介します。
仏塚古墳詳細
古墳名 | 仏塚古墳 |
住所 | 奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺 |
墳形 | 方墳 |
直径 | 23m |
高さ | 不明 |
築造時期 | 6世紀末 |
被葬者 | 不明 |
埋葬施設 | 横穴式石室 |
国の指定史跡 | 1997年3月21日 |
参考資料 | 案内板 |
案内板
昭和51年12月に、斑鳩町教育委員会が県立橿原考古学研究所の協力を得て発掘調査を行い、出土遺物などから6世紀末頃に造られたと推測されます。
古墳の形は、一辺23mの「方墳」と推定され、石室は横穴式石室です。
縄文時代から室町時代頃の遺物が出土し、副葬品では、須恵器などの土器類や耳環(イヤリング)、馬具などがありました。
また、貴重な遺物として、高さ9.5㎝の金銅物や塑像仏の破片、花瓶や六器などの仏具など、仏教に関するものが出土しました。
これは、中世になって石室が仏堂として利用され、当時「聖」と呼ばれた僧侶が一般民衆へ布教活動を行う際にの祠とされたようです。