はい、今回は兵庫県加古川市にある「日岡陵(ひおかりょう)」を紹介します。この日岡陵は、加古川市最大の前方後円墳で、宮内庁により稲日稚郎姫(いなびのわかいらつめ)の陵に治定されています。
稲日稚郎姫というあまり聞きなれない人物かもしれませんが、あの「ヤマトタケル」の母親に当たります。そんな古代の英雄の母親の陵とされる古墳があると聞いたからには、見に行かずにはいられません。ということで、兵庫県加古川市にある「日岡陵」へ行ってきました。
稲日稚郎姫とは
日岡陵に治定されている稲日稚郎姫(いなびのわかいらつめ)は、第12代景行天皇の皇后であり、古代の英雄ヤマトタケルの母にあたる人物です。

播磨国風土記によれば、天皇が彼女を求めて自ら播磨を訪れたという情熱的な「妻問い」の伝承が残っています。一度は島へ逃げ隠れた彼女ですが、白い犬の導きによって天皇に見い出され、現在の加古川町木村付近とされる「城宮(きのみや)」の地で結ばれたと伝えられています。
しかし、景行天皇52年に彼女が没すると、思わぬ悲劇が起こります。遺骸を日岡へ運ぶ際、加古川で突如としてつむじ風が吹き荒れ、亡骸は川に沈んで行方不明になってしまったのです。必死の捜索の末、川から見つかったのは彼女の遺品である「匣(くしげ:櫛箱)」と「褶(ひれ:薄い肩掛け)」だけでした。
天皇の悲しみは深く、せめてその遺品だけでも、この地に葬ったと伝えられています。これが日岡陵が別名「褶墓(ひれ墓)」と呼ばれる由来です。天皇は「この川の者は決して食べない」と誓い、以来、加古川のアユは献上されることはなくなったといいます。
この播磨国風土記に記された伝承が有力な根拠となり、明治16年、現在の場所が皇后の陵として正式に治定されました。
日岡陵と日岡山古墳群
日岡陵は、印南野(いなみの)台地の北西端に位置する「日岡山」に築かれた、日岡山古墳群の中でも、中心的存在となる「盟主墳」にあたります。この古墳群は加古川の東岸に位置し、ふもとを流れる加古川や下流に広がる平野部を一望できる丘陵地に築かれています。

「日岡」という地名の由来は古く、『播磨国風土記』によれば、景行天皇が狩りをしていた際、一頭の鹿がこの丘に登って「比比(ひひ)」と鳴いたことからその名がついたと伝えられています。また、この一帯を指す「賀古(かこ)」という郡名も、地形が「鹿児(かこ:鹿の子)」の姿に似ていたことから天皇が名付けたとされており、古くから王権と深い関わりを持っていたことがうかがえます。
古墳群は、最高所にある日岡陵を中心に、径約600mという比較的狭い範囲に前方後円墳5基を含む多数の古墳が密集しているのが特徴です。日岡陵のほか、南大塚、西大塚、北大塚、勅使塚の計5基の前方後円墳が現存しており、これらはいずれも前方部を当時の勢力基盤であった平野側(南西方向)に向けて築造されています。
また、南大塚古墳や現在は消滅した東車塚古墳からは、ヤマト王権との密接な関係を物語る「三角縁神獣鏡」が出土しています。主要な前方後円墳が築かれた4世紀から5世紀の後、6世紀後半から7世紀にかけては山の斜面に約20基の横穴式石室を持つ群集墳が築かれるなど、日岡山は数世紀にわたって古墳が築造されてきました。
日岡陵へ
日岡陵のあるこの場所は、甲子園球場約9個分の広さを持つ日岡山公園として整備されています。公園にはグラウンドや野球場、市民プール、体育館、武道館といったスポーツ施設が充実しているほか、イベントも開催されるなど、多くの人で賑わっていました。

日岡陵へ向かう途中には、南大塚古墳や西大塚古墳、西車塚古墳など、同時代に築造された古墳が残されており、それらを巡りながら、日岡陵へ向かいます。日岡陵は、日岡山公園の北西の最も高い場所に位置しています。

なかなか急な階段をのぼりきると、日岡公園の展望台が見えてきます。この展望台から、日岡陵を一望することができます。ただ全体的に木々が生い茂っており、あまり古墳という感じはしません。

日岡山古墳群の中で最も加古川に近い丘陵端に築かれており、かつては周辺の平野部を一望できる極めて良好な眺望を持っていたと考えられています 。
古墳の規模は全長は資料によって差がありますが、約80〜85.5mとされ、加古川市内では最大の前方後円墳です 。墳丘の構造については、くびれ部付近に地山の岩盤が露出していることから、一定の高さまで自然の地形を基盤として築造されていることが判明しています。
また、斜面には一段ごとの平坦面である「段築」は認められず、無段であったか、テラス面が非常に狭い構造であった可能性が高いとされています 。表面には葺石(ふきいし)と推測される円礫が露出しているほか 、調査では円筒埴輪などの破片も採集されており 、築造当時は石や埴輪で装飾されていたことがうかがえます。
築造年代は3世紀後半から4世紀代と推定されており、日岡山古墳群で連続して築かれた5基の前方後円墳の中でも、最初に築造された最古の古墳と考えられています。墳丘は宮内庁が管理しているため、発掘調査は行われていませんが 、墳丘全体としては概ね築造当時の姿を留めていると考えられています。
ということで、日岡陵を見てみましょう。といっても古墳なので、周囲を巡る道などはありません。入口には、案内板のほかいくつかの看板がおかれていました。こちらは加古川市の「わがまち加古川70選」の看板。いつか残りの69選を巡れる日はくるのでしょうか。

こちらは宮内庁の設置した看板で、うっすらと「日岡陵」とかかれているようです。

こちらは宮内庁直々に「まむし注意」の案内。山の中なので、宮内庁職員も御陵整備の際にまむしをみかけたことがあるのかもしれません。

こちらが賛同ですが、天皇陵でこのような山道を進んでいくのも少し珍しいかもしれません。

ここが日岡陵の遥拝所になります。宮内庁おきまりの石垣、鳥居、そして陵墓名が彫られた石柱が置かれています。


日岡陵の築造時期は3世紀末から4世紀初頭と推定されており、稲日稚郎姫が生きたとされる時代と大きく外れていません。宮内庁による陵墓の治定は、考古学的な知見と必ずしも合致しないケースも少なくありません。
しかし、彼女が実在した人物であると仮定するならば、その立地や規模、時期から見ても、ここが彼女の墓であった可能性はあるのではないでしょうか。

そんなわけで、最後に遥拝所でお参りしましたが、それ以外は「デカい森ですね」と呟く以外に特にすることがありません。どの角度から激写しても鳥居と森しか映らないので、とりあえず帰ることにしました。
まとめ

今回は、兵庫県加古川市にある「日岡陵」を紹介しました。宮内庁が管理しているため、中に入ることもできず、周りも巡ることができないので、遥拝所を見つめることしかできません。ただ、公園内にある数多くの古墳のなかでも盟主墳ともいえる存在なので、日岡山古墳群を巡る際は訪れておきたい古墳ではないでしょうか。
ということで、日岡陵の紹介はこの辺で。次回はまた別の、天皇の奥さんの陵を紹介します。
日岡陵詳細
| 古墳名 | 日岡陵 |
| 別名 | ひれ墓古墳 |
| 住所 | 兵庫県加古川市加古川町大野1755 |
| 墳形 | 前方後円墳 |
| 規模 | 80~85m |
| 高さ | 不明 |
| 築造時期 | 3世紀後半から4世紀代 |
| 被葬者 | 稲日稚郎姫 |
| 埋葬施設 | 不明 |
| 石室全長 | 不明 |
| 指定文化財 | 不明 |
| 出土物 | 不明 |
| 参考資料 | ・加古川市史 ・案内板 |
案内板
ひれ墓古墳(日岡陵)古墳時代前期(3世紀後半~4世紀)古墳ひれ墓古墳は、日岡山古墳群を構成する主要な古墳のひとつで、全長約80mの前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)です。日岡山古墳群のなかで古墳時代前期に連続して築造された5基の前方後円墳のうち、最初に築造された古墳と考えられています。景行(けいこう)天皇の后(きさき)である「播磨稲日大郎姫命(はりまのいなびのおおいらつめのみこと)」の陵墓(りょうぼ)に治定(じてい)されており、奈良時代に編纂された『播磨国(はりまのくに)風土記(ふどき)』には、この古墳が「ひれ墓」と呼ばれるようになった伝承などが記載されています。『播磨国風土記』賀古(かこ)郡条によると、「印南別嬢(いなみのわきいらつめ)(播磨稲日大郎姫命と同一人物とみられます)」の遺骸(いがい)を葬るために加古川を渡っていたとき、つむじ風が起こり、その遺骸は川の中に沈んだそうです。遺骸は見つからず、ただ「匣(くしげ)」と「褶(ひれ)」だけが見つかったため、これらのものをお墓に納めたことから、「褶墓(ひれ墓)」と呼ぶようになったと記されています。
令和4年3月 加古川市教育委員会
