はい、今回は大阪府堺市にある「檜尾塚原古墳群3号墳(ひのおつかはらこふんぐんさんごうふん)」を紹介します。開発の影響で、古墳が別の場所に移されて保存されるケースは少なくありません。
檜尾塚原古墳群3号墳も移設保存された古墳ですが、何故か人目につかない公園の茂みの奥という、誰も行かない場所に保存されています。そんな謎の立地にある古墳があると聞いたからには、見に行かずにはいられません。ということで、大阪府堺市にある「檜尾塚原古墳群3号墳」へ行ってきました。
檜尾塚原古墳群3号墳とは
檜尾塚原3号墳は、大阪府堺市南部に広がる檜尾塚原古墳群の一つ。この古墳群は、須恵器の一大生産地として知られる陶邑窯跡群の西側丘陵地に位置しており、1号墳から9号墳までの複数の古墳が確認されています。
古墳群のうち1・2・3・8号墳は、いずれも丘陵台地の縁辺に沿って10メートルほどの間隔で並び、被葬者どうしが血縁や地縁で強く結びついた小集団だったと考えられています。現在、檜尾塚原古墳群の半数は失われましたが、7号墳はそのまま保存され、3・8号墳は別の場所に移設保存されています。
ということで、周辺の古墳を巡りながら檜尾塚原古墳群3号墳へ。南海光明池駅から北に少し歩くと野球場があり、その脇に檜尾塚原古墳群8号墳が保存されています。こちらは木芯粘土室という全国でも珍しい埋葬施設を持つ古墳として知られています。

8号墳を後にして北へ歩き、国道38号線をくぐるトンネルを抜けると、3号墳が保存されている「新檜尾公園」があります。保存されているといっても案内板などは全くないため、ネット上で過去に訪れた人のわずかな情報を頼りに探すことに。

あちこち歩き回った結果、どうやらこの茂みの奥にあるらしいということが判明。いや、道どころか茂みの切れ目すらありません。かなりためらうレベルの茂みです。

諦めて比較的茂っていない場所から突撃しますが、やはり奥も茂みでした。あちこち歩いていると道らしいものがあり、それに沿って真っすぐ歩いていきます。

なかなか古墳は見つかりませんが、代わりに捨てられた自転車が見つかりました。いや、どうやってここまで来たのか。

諦めずによく探しながらしていると、ようやく石室らしきものを発見。

謎の穴ですね
おそらく誰も訪れていないのか、倒木が散乱して荒廃感がハンパありません。あと、石室上に謎の鉄パイプが渡されています。案内板もないので、これを見て古墳と気づく人はいないでしょう。道もないこんな辺鄙な場所に移設したのか、謎で仕方ありません。

そんな檜尾塚原古墳群3号墳ですが、古墳時代後期に築造された南北14m、東西13m、高さ2.2mの円墳。墳丘は「版築(はんちく)」という方法で、土を何層にも分けて丁寧に固めながらつくられました。まず地面を掘って石室を設け、そのまわりに土を少しずつ積み重ねて圧し固め、石室の完成にあわせてさらに上に土を重ねる、手間のかかるつくり方がされています。また墳丘の三方には幅1.1メートル、深さ0.3メートルの周溝が巡らされていたことのこと。
埋葬施設は西に開口する両袖式の横穴式石室で、左右両袖式ながら右側の袖だけが大きく張り出す非対称構造が特徴。石室の全長は5.7m、玄室の長さは約3.35〜3.4mで、奥壁は幅1.3m・高さ1.5mの垂直壁。内部は胴張り型で、玄室中央がふくらむ形状を示し、石材には径40cmほどの自然の川原石が用いられています。

これらの石材は現地では採取されておらず、遠方から運ばれたようです。石室床面の下には幅35センチ・深さ25センチの排水溝が設けられ、川原石の蓋石で覆われていました。

副葬品は、盗掘などの撹乱が激しく多くは失われていますが、須恵器の杯身をはじめ、蓋杯や高杯、壺や甕といった破片に加え、土師質土器や、後世に入り込んだと考えられる瓦器なども確認されています。
かつて3号墳のすぐ西には陶棺を用いた直葬形式の2号墳が並び、北側には石材を用いない木芯粘土室の8号墳が位置していました。これらの古墳はいずれも近接していますが、埋葬施設の構造は大きく異なっており、被葬者の出自などに違いがあったのかもしれません。

檜尾塚原古墳群が築かれた堺市南部の丘陵地帯は、古墳時代から平安時代にかけて600基以上もの窯が稼働した、日本屈指の須恵器生産地でした。現在の泉北ニュータウンが造成される以前には、この地域には数多くの古墳が点在し、檜尾塚原古墳群の他にも、牛石古墳群や陶器千塚古墳群などが確認されています。

この須恵器窯跡群は、古代の史書『日本書紀』にもその名が記された「茅渟県陶邑(ちぬのあがたすえむら)」に比定されています。古墳と窯跡が近接して築かれていたことからも、この地域社会が焼き物づくりと深く結びついていたことが窺えます。

檜尾塚原3号墳は、版築という堅牢な技術で築かれた墳丘、丁寧に組み上げられた石室の構造を持ちます。さらに遠方から運ばれたと考えられる貴重な石材の使用などから、この地域における須恵器生産に深く関わった有力者の墓であった可能性が高いと考えられます。
そんなわけで、勇気を出して謎の穴の中に入ってみたのですが、誰一人いない茂みの中で、荒廃した石室に一人佇んでいると、とんでもなく寂しくなってきたので、とりあえずダッシュで帰ることにしました。
まとめ

今回は、大阪府堺市にある「檜尾塚原古墳群3号墳」を紹介しました。保存後はあまり手が入れられていないようで、かなり寂しい雰囲気が漂っていました。なぜもう少し人の目につく場所に保存しなかったのか不思議で仕方ありません。夏場はもっと茂っていると思うので、訪れるなら冬がオススメです。とはいえ、案内板もなく、ただ「謎の穴」がぽつんとあるだけですが。
ということで「檜尾塚原古墳群3号墳」の紹介はこの辺で。次回はまた別の、僻地に移設保存された謎の穴古墳を紹介します。
檜尾塚原古墳群3号墳詳細
古墳名 | 檜尾塚原古墳群3号墳 |
別名 | 無し |
住所 | 大阪府堺市南区新檜尾台1丁 |
墳形 | 円墳 |
規模 | 南北14m、東西13m |
高さ | 2.2m |
築造時期 | 古墳時代後期 |
被葬者 | 不明 |
埋葬施設 | 横穴式石室(両袖式) |
石室全長 | 5.7m |
指定文化財 | 無し |
出土物 | 杯身、蓋杯、高杯、壺、甕 |
参考資料 | 須恵器から見た被葬者の研究 |