はい、今回は兵庫県伊丹市にある「御願塚古墳(ごがづかこふん)」を紹介します。この御願塚古墳ですが、伊丹市においては唯一、完全な姿で残る古墳として知られています。
御願塚古墳が伊丹市において、唯一完全に残る古墳と聞いたからには、見に行かずにはいられません。そんな訳で、兵庫県伊丹市にある「御願塚古墳」へ行ってきました。
御願塚古墳とは
御願塚古墳のある、兵庫県伊丹市に来ています。伊丹市は、兵庫県南東に位置し、大阪府豊中市や池田市と隣接。大阪に近い市街地ということで、人口密度は兵庫県において3位を誇ります。そのような理由もあり、伊丹市にもいくつかの古墳が存在しましたが、現存する古墳は多くありません。
伊丹は、そのまま読むと「いたん」ですが、何故か読み方は「いたみ」。その由来には諸説あり分かっていません。本来は「いたん」または「いたむ」と呼ばれていたものが訛り「いたみ」になったとの説も。1180年の記録には「伊多美」という名前が登場していることから、800年ほど前にはすでに「いたみ」と呼ばれていたようです。
そんな伊丹市の南東部に、御願塚古墳が存在します。伊丹市東部には猪名川が流れており、流域には多くの遺跡が存在します。御願塚古墳周辺にも集落が存在したかは不明ですが、伊丹市南部から尼崎市北部にかけては、園田大塚古墳や柏木古墳など、いくつかの古墳が存在します。
御願塚古墳の最寄り駅は阪急稲野駅ですが、今回はJR猪名川駅で降りて御願塚古墳へ。15分程歩き、住宅地を抜けると御願塚古墳に到着。
御願塚古墳は、5世紀後半に築造された、全長52m、高さ13mの帆立貝形古墳。現在、周囲には幅8~11mの濠が巡らされています。発掘調査により、外堤の外側にも、幅4~5メートル、深さ30センチ程の濠が存在したことが分かっています。
また墳丘北側のクビレ部に「造出し」と呼ばれる突出部が発掘調査により見つかっています。この場所からは、円筒埴輪や須恵器片が出土。造出しでは、祭祀の場として利用されていたとの説があります。
そんな訳で、古墳の周囲を歩いてみることに。墳丘の1段目には遊歩道が整備されており、1周することができます。
こちらが、御願塚古墳の前方部。とりあえず整備されてベンチが置かれています。帆立貝形古墳ということで、前方部はかなり小さめ。
墳丘北側には階段が設置されており、墳頂へ上ることが可能。
墳頂には南神社が建てられ、神社では珍しい「孝徳天皇」を祀っています。第36代の孝徳天皇は645年に即位。中大兄皇子とともに大化改新を行った人物として知られています。
地元では御願塚古墳の被葬者が、孝徳天皇との言い伝えがありました。そのため、南神社で孝徳天皇を祭っているとのこと。ただ日本書紀において孝徳天皇は、「大坂磯長陵」に葬られたと記載されています。また、御願塚古墳の築造時期と孝徳天皇が活躍した時代が一致しません。そのため宮内庁では、大阪府太子町にある「山田上ノ山古墳」を孝徳天皇陵に治定しています。
そんな孝徳天皇が祭られている南神社ですが、創建の由来は分かっていません。ただ言い伝えによると、奈良時代の僧である行基が、この地での開墾完遂を祈願したと伝わっています。それが事実だとすれば、1300年前にはすでに存在したことになります。ちなみに、御願塚古墳の北側には、行基像が建てられていました。
埋葬施設は不明ですが、明治8年(1875年)に地元の人達により発掘が行われています。その際、石組みが見つかったものの、途中で発掘中止を命ぜられたとのこと。そのため詳細は不明ですが、時代的には竪穴式石室が存在するのかもしれません。
被葬者は孝徳天皇ではありませんが、周辺に存在した古墳の中でも特に規模が大きいことから、地元でもかなりの有力者の墓ではないかと思われます。
ちなみに御願塚古墳という変わった名前ですが、これは「五ヶ塚」が由来。元々、御願塚古墳の周辺には、「温塚」「掛塚」「破塚」「満塚」の4基の古墳が存在しました。御願塚古墳を含めて5基あることから、「五ヶ塚」と呼ばれていたようです。周辺4基の古墳は、既に失われていますが、旧地には石碑が建てられていました。
という訳で、4基の旧地を探してみることに。こちらが「温塚」跡…なんですが、マンション開発されて見ることができませんでした。マンション完成後も残されるのかどうかは不明。
こちらが「満塚」跡。住宅地の片隅にヒッソリとあり、気づく人はあまりいないかもしれません。このような場所なので、もちろん古墳の痕跡はゼロ。
残りの「掛塚」は近年の宅地開発により消滅。「破塚」に関しては、どこに存在したかの情報すらありません。
そんな訳で、住宅地なので割と人の往来があり、謎の石碑を激写していると、なかなかの視線を感じます。辛くなってきたので、とりあえず帰ることにしました。
まとめ
今回は、兵庫県伊丹市にある「御願塚古墳」を紹介しました。伊丹市で唯一完全な姿で残る古墳ということで、整備された見学しやすい古墳でした。墳頂には神社が建ちますが、そのおかげで他の4基と違い生き残ることができたのかもしれません。
そんな訳で、御願塚古墳の紹介はこの辺で。次回はまた別の、天皇の墓と伝わる市町村に唯一完存する古墳を紹介します。
御願塚古墳詳細
古墳名 | 御願塚古墳 |
別名 | 五ケ塚 |
住所 | 兵庫県伊丹市10 |
墳形 | 帆立貝形古墳 |
全長 | 52m |
高さ | 13m |
築造時期 | 5世紀後半 |
被葬者 | 不明 |
埋葬施設 | 不明 |
石室規模 | 不明 |
出土物 | 円筒埴輪、形象埴輪、須恵器、土師器 |
指定文化財 | 兵庫県の史跡:1960年3月22日 |
参考資料 | ・案内板 ・兵庫県史 ・伊丹市史 |
案内板1
指定年月日:昭和41年3月22日
所有者:宗教法人須佐男神社南神社
管理者:伊丹市
御願塚古墳は、帆立貝式古墳である。墳丘長は52m。後円部の径39m高さ7m。前方部の長さ13m、幅19m高さ2m。墳丘の周囲には、幅7~11mの馬蹄形の濠が巡る。埋葬施設の構造は不明。近年の調査で、後円部は2段築成、くびれ部に造り出しをもち、第1段テラスくびれ部に円筒埴輪を樹立。そして、濠の外側に堤外濠が巡ることが確認された。当古墳は、古墳時代中期(5世紀後半)に造られ、猪名野を基盤にした氏族の墓と考えられている。昔、周囲に、温塚・掛塚・破塚・満塚とよばれる塚があり、当古墳を含めて、「五ケ塚」と呼ばれていた。
平成24年3月改訂
兵庫県教育委員会
伊丹市教育委員会
案内板2
御願塚古墳
昭和62年、墳丘東側の外堤部で実施した第2次調査において小規模な濠が発見された。その後平成10年までに7度の発掘調査により、この濠が墳丘東側から北側を通って西側まで巡っていることが確認された。規模は幅4~5m、深さ30cm。内側の周濠と同じ馬蹄形に巡ることから、御願塚古墳の二重目の周濠と考えられる。濠の中から埴輪の破片が多数発見されている。平成10年に実施された第8次調査において、墳丘北側の前方部と後円部のくびれ部から「造り出し」が発見された。規模は幅5.8m、高さ1.4m。発掘調査では長さ5.2mにわたり検出された。造り出し上には、円筒埴輪が2列に並べられていたほか、多数の須恵器の破片が出土している。
造り出しは、古墳時代中期にみられる古墳の施設で、被葬者を祀る祭壇と考える説がある。