はい今回は、大阪府堺市にある「鎮守山塚古墳(ちんじゅやまつかこふん)」を紹介します。鎮守山塚古墳は、百舌鳥古墳群の中の一つですが、世界文化遺産には含まれていません。
そんな鎮守塚山古墳ですが、百舌鳥古墳群の中でも見ることが難しい古墳の一つ。そんな訳で、鎮守山塚古墳がどれぐらい見に行くことが難しいのかを確かめるべく、大阪府堺市にある鎮守山塚古墳へ行ってきました。
鎮守山塚古墳とは
鎮守山塚古墳のある、大阪府堺市に来ています。百舌鳥古墳群の特徴として、巨大前方後円墳に陪塚と呼ばれる付属墳が多数存在する点にあります。東部エリアにおける巨大前方後円墳としては、ニサンザイ古墳と御廟山古墳の2基。ただ鎮守山塚古墳は、このどちらからもやや距離が離れているため、陪塚の関係にあるかは微妙なところ。

そんな鎮守山塚古墳ですが、世界文化遺産に登録されている23基には含まれていません。世界文化遺産から除外された古墳の大半は、情報量が少ないもしくは、墳丘が大きく改変されているケースがあります。鎮守山塚古墳は、その両方を兼ね備えた古墳。
そんな訳で、百舌鳥古墳群の東部の古墳を巡りながら鎮守山塚古墳へ。鎮守山塚古墳の隣には「百舌鳥八幡宮」が存在します。社伝によると百舌鳥八幡宮は、欽明天皇の時代に八幡神の宣託を受け創建したと伝わっています。ただ、平安時代に編纂された延喜式神名帳には記載されていません。

主祭神は応神天皇とその妻である神功皇后。他に住吉大神、春日大神も祭っています。八幡神社ということで、住吉三神の2柱が祭らている訳ですが、百舌鳥八幡宮の西にある「御廟山古墳」が応神天皇の墓であるとの言い伝えがあることも、理由の一つかもしれません。

そんな百舌鳥八幡宮の隣にある「光明院」の境内に、鎮守山塚古墳が存在します。鎮守という名前は、百舌鳥八幡宮の鎮守の森という意味があったのかもしれません。そんな訳で、鎮守山塚古墳へやっきました。

全力で壁でした
壁の上に見える茂みが鎮守山塚古墳らしいのですが、基本的には壁しか見えません。古墳は光明院の墓地にあるようで、みることはできないようです。とりあえず、壁越しに見つめるしかありません。

ちなみに、一般的な古墳名では「◯◯山古墳」や「◯◯塚古墳」はよく見かけます。また「○○塚山古墳」のパターンもまれに存在します。しかし「○○山塚古墳」パターンは、なかなか珍しいかもしれません。普通に考えれば「鎮守山古墳」になりそうですが、ワザワザ「塚」と付けているので、昔は石室が露出していたのでしょうか。
鎮守山塚古墳は、5世紀中頃に築造された円墳。規模は直径34m、高さ4mを測り、墳丘は2段に築成。ただ墳丘の西側は道により削平されており、原型を留めていません。周囲には幅6mの堀も存在したようですが、今は埋め立てられたようです。また、鎮守山塚古墳のすぐ北側には、「万代寺山古墳(まんだいじやまこふん)」が存在しましたが、現在は破壊されて失われています。

鎮守山塚古墳からは、円筒埴輪、石見型埴輪や、盾、衣蓋(きぬがさ)、家形、動物などの形象埴輪が出土。その他に、須恵器甕、人型土製品が見つかっています。埋葬施設は不明ですが、粘土槨ではないかとのこと。
鎮守山塚古墳のある光明院には、古くから竜山石製の長持形石棺の一部が存在していました。ただ竜山石製の長持形石棺は「王者の石棺」とも呼ばれ、大王や首長クラスの古墳に用いられています。鎮守山塚古墳クラスの円墳には相応しくないため、この長持形石棺は、別の古墳のものと考えられています。現在この長持形石棺の一部は、堺市博物館で保存されています。
そんな訳で、色々な角度から鎮守山塚古墳を激写していたのですが、通行人から見るとただの壁を激写している不審人物にしか見えないので、とりあえず帰ることにしました。
まとめ

今回は、大阪府堺市にある「鎮守山塚古墳」を紹介しました。お寺の境内にあり、壁しか見ることができないという古墳でした。ただ、周辺の古墳はかなり消滅しているので、お寺の境内にあったおかげで、無くならずに済んだのかもしれません。
そんな訳で、鎮守山塚古墳の紹介はこの辺で。次回はまた別の、古墳を見にきたら壁しか見れなかった古墳を紹介します。
鎮守山塚古墳詳細
| 古墳名 | 鎮守山塚古墳 |
| 別名 | なし |
| 住所 | 大阪府堺市北区百舌鳥赤畑町5丁 |
| 墳形 | 円墳 |
| 直径 | 34m |
| 高さ | 4m |
| 築造時期 | 5世紀中頃 |
| 被葬者 | 不明 |
| 埋葬施設 | 推定:粘土槨 |
| 石室全長 | 不明 |
| 指定文化財 | なし |
| 出土物 | 円筒埴輪、石見型埴輪、盾、衣蓋、家形、動物埴輪、須恵器甕、人型土製品 |
| 参考資料 | 百舌鳥古墳群をあるく |
