はい、今回は奈良県大和郡山市にある「六道山古墳(ろくどうやまこふん)」を紹介します。市街地にある古墳は、破壊されがちですが、こちらの六道山古墳も前方部が削平され駐車場にされています。
前方部が駐車場にされてしまった古墳があると聞いたからには、見に行かずにはいられません。そんな訳で、奈良県大和郡山市にある「六道山古墳」へ行ってきました。
六道山古墳とは
六道山古墳のある、奈良県大和郡山市に来ています。大和郡山市北部は、独立した古墳が点在するエリアで、数は多くありません。ただ六道山古墳のすぐ南西には「小泉高塚古墳」が存在します。

六道という不思議な名前ですが、どうやら仏教用語のようです。六道は、天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道に分かれており、輪廻転生により巡る世界とのこと。なぜこのような名前が古墳につけられたのかは不明ですが、古墳の所有者が「慈光院」というお寺だったことが関係しているのかもしれません。
そんな訳で、大和郡山市北部の古墳を巡りながら、六道山古墳へ。六道山古墳は、矢田丘陵から南東に伸びる尾根の先端に築造された古墳。そんな丘陵地にある古墳ということで、中々の坂を上り六道山古墳へやってきました。

ガッツリ駐車場ですね
手前の地面が前方部跡で、奥に見える茂みが後円部。いつ頃駐車場にされたのかは不明ですが、1974年に出版された「奈良県の主要古墳I」には、既に駐車場とされたと記載されています。その後、1991年に慈光院が無許可で後円部の土取りを開始。その事に気づいた市が工事の停止を命じ、緊急の発掘調査が行われました。ちなみに発掘調査報告書には、無断で破壊しようとしたことに対して、お怒りの表現がみてとれました。

六道山古墳は、5世紀初頭に築造された全長約100mの前方後円墳。墳丘は、後円部が2段、前方は1段の築成と考えられています。埴輪は見つかっているものの、葺石は敷かれていなかったとのこと。周濠は存在しなかったようですが、周囲に平坦なテラスが設けられていたと考えられています。

遺物として、弥生時代の土器片、須恵器片、埴輪片、サヌカイト製石器が出土。もともと六道山古墳は、5世紀前半の築造と考えられてきましたが、須恵器片の特徴から、5世紀後半の築造の可能性もあるようです。被葬者については不明ですが、周辺では最大規模を有することから、この一帯を治めた首長の墓と考えられています。
という訳で、六道山古墳を見ていくことに。と言っても、前方部はすでに失われており、地面しかありません。

後円部を見ていきたいのですが、駐車場に勝手に入るのも何なので、遠くから茂みを見つめるだけに。多分、近くから見たとしても茂みしか見えないでしょう。
こちらが後円部の北東。側面をガッチリ擁壁で固められた上、フェンスが張り巡らされているので、中に入ることができません。ただこの場所が一番よく墳丘が見れる場所でしょう。

こちらが東側で、完全に壁です。お疲れ様でした。

前方部を駐車場にした経緯は不明ですが、寺側が、前方後円墳ではなく円墳と思っていたのかもしれません。ただ後円部に関しては、寺側は明らかに古墳という認識があったはずです。それを無断で破壊しようとしたのは、宗教施設としていかがなものかと思います。六道山という名に従えば、破壊を指示した人物は、地獄道に転生するのではないでしょうか。
まとめ

今回は、奈良県大和郡山市にある「六道山古墳」を紹介しました。前方部が駐車場にされてしまったという残念な古墳ですが、これを教訓に文化財保護がより守られていけばと思うところです。後円部はまだ調査が行われていないようなので、今後の調査に期待されます。
そんな訳で、六道山古墳の紹介はこの辺で。次回はまた別の、前方部が駐車場にされた古墳を紹介します。
六道山古墳詳細
| 古墳名 | 六道山古墳 |
| 別名 | 慈光山 |
| 住所 | 奈良県大和郡山市小泉町1594 |
| 墳形 | 前方後円墳 |
| 全長 | 約100m |
| 高さ | 約6m |
| 築造時期 | 5世紀初頭 |
| 被葬者 | 不明 |
| 埋葬施設 | 不明 |
| 石室全長 | 不明 |
| 指定文化財 | なし |
| 出土物 | 弥生時代の土器片、須恵器片、埴輪片、サヌカイト製石器 |
| 参考資料 | 六道山古墳I第2次緊急発掘調査報告書 |
