はい、今回は大阪府和泉市にある「貝吹山古墳(かいふきやまこふん)」を紹介します。「貝吹山」という名の古墳は、近畿でも他に2基ほど存在しますが、全て「法螺貝」を吹いたことが由来。
ただ他の2基が戦国時代の陣所であったことに対し、和泉市の貝吹山では「一揆の集結地」として法螺貝が吹かれたことが由来です。一揆の集結地になった古墳と聞いたからには、見に行かずにはいられません。そんな訳で、大阪府和泉市にある「貝吹山古墳」へ行ってきました。
貝吹山古墳とは
貝吹山古墳のある、大阪府和泉市にきています。堺市の南に位置する和泉市は、比較的丘陵の多いエリア。古墳時代後期の古墳が多く、かつて85基の古墳で構成された「信太千塚古墳群」が知られています。

和泉市北部においては、和泉黄金塚古墳と貝吹山古墳が、比較的良好な姿で残る数少ない古墳です。貝吹山古墳は、和泉黄金塚古墳から南西に約2.5kmほどの場所に存在。そんな訳で、和泉市周辺の古墳を巡りながら、貝吹山古墳へ。

近くのコインパーキングに車を停め、徒歩5分ほど歩くと、貝吹山古墳に到着。貝吹山古墳は、5世紀中頃に築造された帆立貝形古墳。全長約60mを測り、2段に築成されています。和泉市北部においては、和泉黄金塚古墳に継ぐ規模。住宅地にありながら、比較的良好な姿を残しているということもあり、 2003年に和泉市の指定文化財に登録されています。

かつて墳丘には葺石が敷かれ、円筒埴輪が並べられていました。また周囲には濠が巡らされていましたが、現在は埋められています。埋葬施設は不明ですが、時代的に竪穴式石室、または粘土槨あたりかもしれません。

被葬者は不明ですが、地元の有力者の墓と考えられています。和泉市北部においては、4世紀末に和泉黄金塚古墳が築かれ、しばらく期間が空いた5世紀中頃に、貝吹山古墳が築造されています。墳形は前方後円墳から帆立貝形古墳へ、規模は94mから60mと、格式や規模は縮小。
ちょうどこの時期に、百舌鳥・古市古墳群が和泉、河内において築造されはじめられており、ヤマト王権の進出に何らかの影響を受けたのかもしれません。
ちなみに名前の「貝吹山」ですが、関西においては大阪府岸和田市と奈良県広陵町に同名の古墳が存在します。どちらも中世の戦乱時に陣地として布陣され、法螺貝が吹かれたことが由来とされています。

ただ和泉市の貝吹山古墳は、江戸時代後記の1782年に起こった「千原騒動」という一揆が由来。もともと貝吹山古墳のある和泉国大鳥郡の一部は、御三卿の一角である「一橋家」が治めていました。石高は10万石でしたが、領地は武蔵国から備中国までと、幅広く点在。しかも一橋家は家臣が少ないため、農民の中から掛屋と呼ばれる徴収人を選び、間接統治を行っていました。
千原騒動が起きた天明2年は、江戸四大飢饉の一つである「天明の大飢饉」が起きた年。綿作が盛んであった和泉国においても、異常気象の影響から凶作が続いていました。しかし掛屋の川上佐助は、農民から厳しく年貢を取り立てた上、不正を行い私腹を肥やしていました。

凶作による年貢の見直しを代官に訴えるも退けられ、川上佐助への怒りも重なり、農民はついに蜂起することに。参加者は周辺54村から集まり、その規模は1000人以上に膨れ上がります。この一揆の集結地として選ばれたのが「人集山(にんしゅやま)」と呼ばれていた小さな丘でした。これが現在の貝吹山古墳です。この古墳へ集結する合図として法螺貝が吹かれたことから、以後は「貝吹山」と呼ばれるようになったとのこと。
ちなみに千原騒動は一揆勢が比較的冷静に行動したため、掛屋である川上佐助の屋敷が打ち壊されるだけの被害で終わりました。処罰者は120名もの数に上りましたが、翌年から年貢が下がり、農民たちの生活は改善されたようです。
そんな訳で、古墳の周りを歩いてみることに。ちなみに周囲にはフェンスが張り巡らされており、中に入ることはできません。また前方部のある北側は住宅地になっており、見ることもできず。
こちらが古墳の西側。墳丘手前は全て駐車場になっており、これ以上近づけません。この駐車場あたりに濠が存在したと思われます。

こちらが古墳の南側で、案内板が設置。ここが古墳への入口ですが、普段は施錠されて中に入ることはできません。この場所は墳丘の姿を一番よく見れる場所ではないでしょうか。


ただ、人通りの多い住宅地なので、フェンス越しに必死に謎の盛り土を激写していると、なかなかの視線を感じるので、とりあえず帰ることにしました。
まとめ

今回は、大阪府和泉市にある「貝吹山古墳」を紹介しました。一揆の集結地が名前の由来という珍し古墳でした。中には入れないものの、比較的良好な姿を残しているので、今後の発掘調査に期待したいところです。
そんな訳で、貝吹山古墳の紹介はこの辺で。次回はまた別の、一揆の集結地になった古墳を紹介します。
貝吹山古墳詳細
| 古墳名 | 貝吹山古墳 |
| 別名 | なし |
| 住所 | 大阪府和泉市太町 |
| 墳形 | 帆立貝形古墳 |
| 全長 | 約60m |
| 高さ | 7.7m |
| 築造時期 | 5世紀中頃 |
| 被葬者 | 不明 |
| 埋葬施設 | 不明 |
| 石室全長 | 不明 |
| 指定文化財 | 市の史跡: 2003年3月28日 |
| 出土物 | 円筒埴輪、形象埴輪、滑石製槽 |
| 参考資料、 | ・案内版 ・百舌鳥古墳群をあるく ・千原騒動 |
案内板
和泉市指定史跡 信太貝吹山古墳
平成15年3月28日指定
信太貝吹山古墳は、信太山丘陵北西麓の海岸線に向かって舌状に 派生する低位段丘に立地しています。
古墳は全長約60m、後円部径50m、同高さ7.7mの前方後円墳ですが、前太が短いことから、帆立貝式古墳とよばれています。 葬施設は明らかではありませんが、過去の調査等で、墳丘に埴輪列と葺石が施されていたことが確認されるとともに、円筒埴輪、形象埴輪、滑石製槽等が出土しています。
和泉市北部の信太地域では、上代町にある和泉黄金塚古墳に次いで、 5世紀中頃に造られた古墳です。
古墳は、墳丘や周濠の保存状態も良好であり、和泉北部の古墳時代社会を知る上で貴重な位置を占めていること、また江戸時代にも 泉・大鳥郡内の一橋家領54ヶ村の農民が蜂起した「千原騒動」の 際、一揆に参加した農民たちが、法螺貝を合図にここに集まったこ とから「貝吹山」とよばれるようになったとも伝えられており、近世 史の上からも重要な位置を占めていることから、和泉市の歴史を語る上で欠かすことのできない貴重な文化財として、墳丘部が和泉市史跡 に指定されています。
平成17年3月
和泉市教育委員会
