はい、今回は奈良県広陵町にある「三吉一番地古墳(みつよしいちばんちこふん)」を紹介します。古墳が公園内に保存されるケースはよく見かけますが、三吉一番地古墳もその一つ。
公園内に保存された古墳といえば、ヒッソリとした場所にあるイメージですが、この古墳は遊具コーナーにあるという賑やかな場所に存在します。遊具コーナーに保存された古墳と聞いたからには、見に行かずにはいられません。そんな訳で、奈良県広陵町にある「三吉一番地古墳」へ行ってきました。
三吉一番地古墳とは
三吉一番地古墳のある、奈良県広陵町に来ています。広陵町は町名に「陵」とつくことから分かるように、古墳の多いエリア。特に「馬見古墳群」は、大和三大古墳群の一つで、広陵町の古墳は主に「中央群」に属しています。
馬見古墳群の中央群は、古墳時代前期から後半にかけて多くの古墳が築造されてきました。その中には、国の特別史跡に指定されている全長204mの「巣山古墳」や、押坂彦人大兄皇子の墓との説がある「牧野古墳」など、有名な古墳も存在します。

三吉一番地古墳は、中央群における南部に位置。丘陵地の頂上近くに築造されていますが、現在は竹取公園内に整備されて保存されています。
竹取公園という名前だけに、この公園には「かぐや姫」にまつわるオブジェが至る所に置かれていました。どうやらこの辺が、かぐや姫の舞台となったと広陵町がPRしているようです。

その根拠となるのが「竹取爺」の名前です。竹取物語によると竹取爺の正式名称は、「讃岐造(さぬきのみやつこ)」。一般的に古代の有力者は「地名」+「身分」を名乗ります。
讃岐といえば四国にある「香川県」ですが、この広陵町にも讃岐の名前を有する場所が存在します。それが竹取公園から北東へ200mほどの場所にある「讃岐神社」です。讃岐神社は平安時代に編纂された延喜式神名帳に記載されている、由緒ある式内社。一説によると、讃岐国で竹細工を得意としている集団が広陵町へ移り住み、祖神を祀るために創建したと考えられています。
現在、竹取公園一帯は「三吉(みつよし)」という地名ですが、かつては「散吉」と書いて「さぬき」と読んでいたとのこと。ということで、竹取物語に登場するおじいさんは、散吉郷を治める有力者がモデルだったのかもしれません。
そんな竹取物語発祥の地という竹取公園を先に進むと、大きな池に謎の龍のオブジェを発見。竹取物語の中で、かぐや姫が求婚者に「龍の首の珠を持ってこい」といったエピソードがありますが、よく見ると口に珠のような物を加えていました。残念ながら池のど真ん中にあるので、取りに行くのは無理のようです。

さらに公園内を進んでいくと、健康器具を発見。どういう使い方をするのか謎でしたが、説明文を見ると腕で体を支えるようです。いや、この体勢は無理でしょう…


そんな謎の健康器具を後に、三吉一番地古墳のある「学びの森」エリアへ。ここは巨大遊具が置かれている場所で、多くの子どもたちが遊んでいます。なかなかハードな環境に古墳が保存されているようですが、もちろんチビっ子たちが古墳に興味を持つことはないでしょう。

という訳で、こちらが三吉一番地古墳。現在は、石室の基底部がわずかに残るだけ。なかなか残念な姿ではありますが、案内板が2つも設置されているという厚遇ぶり。もともとは、隣にも同規模の古墳が存在したそうですが、現在は失われています。

三吉一番地古墳は、6世紀後半に築造された古墳。封土は既に失われていたため、本来の墳形については分かっていません。古墳時代後半ということなので、葺石や埴輪は存在しなかったと思われます。

埋葬施設は南に開口した、全長3.35mの無袖式の横穴式石室。大半の石材が失われていますが、推定で高さが0.9mあったと考えられています。石材には、周辺の大型古墳の葺石や、凝灰岩製の家形石棺の破片が用いられているとのこと。どうやら身近なところから石材をかき集めてきたようです。

石室の床面には2個一組で4個の自然石が棺台の代わりに置かれ、木棺が安置されたと考えられています。副葬品としては、土師器杯、須恵器平瓶、鉄地金銅装飾金具が見つかっています。

被葬者は不明ですが、小型の石室、あり合わせの石材、木棺による埋葬などを考えると、中級クラスの有力者の墓なのかもしれません。
そんな訳で、遊具コーナーでオッサンが謎の物体をグルグル激写していると怪しさ抜群なので、とりあえず帰ることにしました。
まとめ

今回は、奈良県広陵町にある「三吉一番地古墳」を紹介しました。竹取物語発祥の地にある古墳ということで、被葬者は讃岐氏に関わる一族なのかもしれません。古墳自体は微妙な感じですが、情報は充実しているのはいいことではないでしょうか。
そんな訳で、三吉一番地古墳の紹介はこの辺で。次回はまた別の、公園の遊具コーナーに保存された古墳を紹介します。
三吉一番地古墳詳細
古墳名 | 三吉一番地古墳 |
別名 | なし |
住所 | 奈良県北葛城郡広陵町三吉458 |
墳形 | 不明 |
全長 | 不明 |
高さ | 不明 |
築造時期 | 6世紀末 |
被葬者 | 不明 |
埋葬施設 | 横穴式石室(無袖式) |
石室全長 | 3.35m |
指定文化財 | 無し |
出土物 | 土師器杯、須恵器平瓶、鉄地金銅装飾金具 |
参考資料 | ・案内板 ・奈良県移籍地図web |
案内板1
墳丘は、平安時代後期に削り取られ、石室も盗掘を受けており、天井石を失っている。石室は尾根の南斜面に幅1.7m、長さ3.8m以上、深さ約1.0mの墓穴を掘って構築されている。
石室は、無袖の横穴式石室で石室長335cm、幅84cm、高さは、推定で約90cmと考えられる。南に開口し、石室主軸はN-5°40’Wにある。左側壁は、ほぼ中央にある長辺40cm、短辺30cmの縦に置かれた花崗岩を基準とし、この石周辺では花崗岩をほぼ3段で積み上げ、奥壁までは、輝石安山岩を4段から5段小口積みにする。床面から約50cmの高さまでは、垂直に立ち上げ、それ以上は、平らな輝石安山岩を主材として5段から6段、小口積みで持ち送る。
右側壁は開口部付近の一辺50cmの方形の花崗岩を基準に積み上げられたと考えられる。基底部より3段から4段は、垂直に立ち上げ、それ以上は持ち送る。奥壁は、側壁に比ベ乱雑に積まれている。
石材に凝灰岩の家形石棺の破片が使用されたり、個々の石材が小ぶりであることから、石室材は産出地から運ばれたのではなく、周辺の大型前方後円墳の葺石などを調達し、石室を構築したと考えられる。
案内板2
西にのびる小支丘の南斜面に築造された古墳で南に 横穴式石室が開口している。 墳丘は既に削り取られ、 規模は不明である。 石室は 無袖の横穴式石室で石室長 さ335cm幅84cm、天井石は 失われているが高さは推定で約90cmと考えられる。 床面には2個一組で4個の自 然石が棺台の代わりに置かれ、木棺が安置されたと考えられる。遺物は石室中央 床面で須恵器平瓶と土師器の杯が正位で据えられ、棺台の自然石の隅から伏せた状態で土師器の杯が出土している。この他に鉄地金銅装飾金具が出土している。古墳時代前期から中期の大型古墳が築かれる馬見古墳群のなかで、 後期の6世紀末に築かれた貴重な横穴式石室の古墳として公園内に保存されている。