はい、今回は大阪府堺市にある「孫太夫山古墳(まごだゆうやまこふん)」を紹介します。孫太夫山古墳は、世界文化遺産に登録された百舌鳥古墳群の一つ。
一般的に古墳名は、形、地名、伝説などが由来しますが、孫太夫山古墳は人の名前が古墳名になっています。一体、孫太夫さんとは誰なのか?そんな訳で孫太夫さんが何者かを探るべく、大阪府堺市に行ってきました。
孫太夫山古墳とは
百舌鳥古墳群は、44基のうち23基が世界文化遺産に登録され、孫太夫山古墳もその23基に含まれています。百舌鳥古墳群は、古墳が最も巨大化した時代に築造された古墳群。元々は、大小合わせて100基ほどの古墳が存在しましたが、現在は44基が保存されています。
この時代の特徴として、巨大前方後円墳の周囲に「陪塚(ばいちょう)」と呼ばれる、付属墳が多く築かれたことにあります。孫太夫山古墳も、大山古墳(仁徳天皇陵)の陪塚と考えられています。大山古墳の南側には、東から「収塚古墳」「孫太夫山古墳」「竜佐山古墳」「狐山古墳」の4基が、仁徳天皇陵の陪塚と考えられています。

そんな訳で、百舌鳥古墳群を巡りながら、孫太夫山古墳へ。古墳名の「孫太夫」ですが、大鳥郡中筋村の庄屋である「南 孫太夫」が所有していたことが由来。代々、南家は、大山古墳の濠を管理する一族でした。明治時代に入り、南氏が国に寄贈し、仁徳天皇陵の陪塚として管理されることに。後に南家18代の南 治好氏が残りの土地を寄贈し、現在に至ります。なお南 治好氏は、堺市の13代目の市長も勤めたとのこと。

孫太夫山古墳は、5世紀中頃に築造された65mの帆立貝形古墳。前方部を西に向け、大山古墳の堤に対して平行に築造されています。公園整備時に濠を復元しましたが、本来は馬蹄形だったと考えられています。ちなみに周濠については堺市が管理。

後円部は宮内庁が「仁徳天皇陵陪塚い号飛地」として管理し、墳丘に入ることはできません。後円部は2段に築成。築造時、墳丘に葺石が敷かれ、円筒埴輪が並べられていたようです。前方部は早い段階で削平されていたらしく、詳細は不明。現在の前方部は、公園整備時に堺市が復元して管理しています。

ということで、孫太夫山古墳の周辺を歩いてみることに。こちらが前方部。復元したものということで、裾部を石で補強しています。ちなみに、かつて周濠は水田として活用されていたため、墳丘は少し侵食されていたとのこと。そのため復元された姿は、実際よりも少し小さいようです。

こちらが後円部で、宮内庁が管理しています。周囲を柵で囲まれているため、中に入ることはできません。ただ濠があるので、そもそも近づくこともできませんが。おそらく後円部に埋葬施設が存在すると思われますが、発掘調査が行われていないため不明。時期的には、竪穴式石室か粘土槨あたりでしょうか。

孫太夫山古墳は、出土した埴輪の形状から、仁徳天皇陵と同時期に築造されたと考えられています。大山古墳と距離が近く、帆立貝形古墳という形から、孫太夫山古墳の被葬者は、大山古墳の被葬者とのつながりが深い、高位の人物なのかもしれません。

そんなわけで古墳を一周してみましたが、中に入ることができず、周濠の端で謎の盛り土を見つめる以外にすることが無くなったので、とりあえず帰ることにしました。
まとめ

今回は、大阪府堺市にある「孫太夫山古墳」を紹介しました。百舌鳥古墳群における人名が由来の古墳では、一番人物の情報が充実している古墳と言えます。
ということで、孫太夫山古墳の紹介はこの辺で。次回はまた別の、偉い人の名前が由来の古墳を紹介します。
孫太夫山古墳詳細
| 古墳名 | 孫太夫山古墳 |
| 宮内庁名 | 仁徳天皇陵陪塚い号 |
| 住所 | 大阪府堺市堺区百舌鳥夕雲町2丁 |
| 墳形 | 帆立貝形古墳 |
| 全長 | 65m |
| 高さ | 7.7m |
| 築造時期 | 5世紀中頃 |
| 被葬者 | 不明 |
| 埋葬施設 | 不明 |
| 石室全長 | 不明 |
| 指定文化財 | 世界文化遺産:2019年7月6日 堺市の史跡:2017年2月6日 |
| 出土物 | 円筒埴輪、朝顔形埴輪、土製勾玉(伝) |
| 参考資料 | ・案内板 ・百舌鳥古墳群をあるく |
案内板1
仁徳天皇陵古墳の周りには10数基の小さな古墳が築かれており、陪塚と呼ばれています。なかでも、この古墳は仁徳天皇陵古墳の中心線上に築かれており、関係の深さがうかがえます。後円部は築かれた頃の姿がよく保たれています。前方部と濠は大仙公園を造る時にもとの形に整備しました。近年の発掘調査では墳丘に葺石があったことや、出土した埴輪の特徴から、仁徳天皇陵古墳と同じ頃に造られたことがわかりました。また、かつて墳頂部からは土製勾玉が見つかったと伝わっています。
案内板2
孫太夫山古墳と南治好先生
孫太夫山古墳は、古墳時代中期の前方後円墳(帆立貝式) で墳丘長56メートル 後円部径48メートル、前方部幅30メートル 全長67メートルである。
その名称は 江戸時代・大鳥郡中筋村庄屋南孫太夫の所有であったことに由来し、明治初期に南からこれを国におさめのられ、大仙陵陪塚とされた。
古来・大仙陵の濠水は、廣大なる農地を潤すのをつねとし、代々庄屋たる南家は陵池の修復にあたられた。
18世南治好先生が残余の部分を寄贈され、その完全保存をはかられたのである。
先生は、明治二十年九月、天正以來の名家に生れ、25歳にして、泉北郡向井村々長に就任、以来、府・市政に参画し、大阪府會副議長・13代堺市長を歴任し地方自治の振興に尽力された。また、大阪府農會長・同農業會議會長及び榎土地区画整理組合ほか6地区にわたる組合長として、今日の堺市東部地域発展の基礎を築かれるなど偉大な業績を遺し昭和43年2月長逝された。
こにその功を讃え、敬と感謝の念をこめてこの碑を建立する。
昭和54年2月
堺市長 我堂武夫謹書
