はい、今回は奈良県平群町にある「三里古墳(みさとこふん)」を紹介します。この三里古墳ですが、奈良県下では石室内に石棚が作られた、珍しい古墳として知られています。
石棚を持つ古墳は、和歌山県紀の川流域の古墳で確認されていますが、奈良県においては三里古墳を含めて3基しか確認されていません。そんな奈良県で珍しい石棚を持つ古墳と聞いたからには、見に行かずにはいられません。という訳で、奈良県平群町にある、三里古墳へ行ってきました。
三里古墳とは
三里古墳のある、奈良県平群町に来ています。西に生駒山地、東に矢田丘陵に挟まれた平群町は、古代の名族「平群氏」の本拠地ともいわれています。矢田丘陵側には、主に古墳時代後期の古墳が多数存在し、そのうち三里古墳を含めて、6基を見ることができます。
そんな訳で、今回は矢田丘陵側の古墳を巡りながら、三里古墳へやってきました。椿井宮山塚古墳、宮裏山古墳、椿井北古墳、平等寺北古墳と、矢田丘陵沿いを北に進みながら、三里古墳へ。

三里古墳は、矢田丘陵から西に延びる尾根上に築かれた古墳。三里古墳の周辺にも複数の古墳が存在しましたが、現在は開墾や開発により消滅。先程の4基は山の中に存在しますが、三里古墳は民家の近くに存在します。

住宅地を歩き、路地を少し入ったところを更に進んでいくと、謎の石碑が2基建てられていました。右は「忰める手に金箔の出土馬具」と刻まれた句碑。馬具というのは、古墳から出土した副葬品の一つ。どうやら地元句会の初代会長である奥田権耳さんという方が、古墳にちなんで詠んだ歌のようです。

左の石碑には「竹林に風を測りて野火放つ」と刻まれていました。意味はよく分かりませんが、風が吹いているときに竹林に野火を放つのは大惨事になりそうな予感がします。
石碑を先に進んだところに、三里古墳が存在。三里古墳は、6世紀後半に築造された、全長35mの前方後円墳と考えられています。ただ封土が大きく失われているため、確かなことは分かっていません。墳丘表面には葺石が敷かれていましたが、埴輪は存在しなかったとのこと。周濠の有無については不明です。

埋葬施設は、両袖式の横穴式石室。戦後までは、比較的良好な状態で残されており、子供の遊び場にもなっていたようです。ただ、後に石材のいくつかが持ち去られてしまい、現在は天井石が全て失われています。
三里古墳の石室は、玄室、羨道ともに4.6mを測り、平群町においては大きめの規模。三里古墳の石室の最大の特徴は、奥壁に石棚が設置されていることです。

石室に石棚が設置される例は、和歌山県の紀ノ川流域の古墳にみられます。ただ、奈良県において石室に石棚が設置された古墳は、3基しかありません。そのうち吉野郡にある岡峯古墳と槇ヶ峯古墳は、ともに紀ノ川上流に築造されています。

一方の三里古墳は、奈良県北部に位置し、紀ノ川流域から遠く離れています。三里古墳の被葬者は不明ですが、紀ノ川流域の豪族と関係性が深い人物だったのかもしれません。
という訳で、石室を見てみましょう。羨道の石材はかなり失われ、側壁の一部が残るのみ。追葬が行われていたようで、羨道には組合箱形石棺とその横に木棺が置かれていたと考えられています。どちらも現在は失われていますが、石棺の下方部が残されているとのこと。

羨道の奥にある玄室も、側壁と奥壁の一部が残り、天井石は失われています。玄室内には、二上山産の凝灰岩を用いた家形石棺と、その隣に木棺が置かれていたとのこと。こちらも羨道の棺と同様に現在は失われています。

珍しい石棚というのは、奥壁に設置。石室の下部がが土で埋まっているため、上面しか見えていません。この石棚の用途ですが、どうやら石棚の上下にそれぞれ木棺が置かれていたと考えられています。

つまり、羨道に2基、玄室に2基、石棚に2基の合計6基もの棺が埋葬されていたとのこと。一つの石室に6人埋葬された古墳というのも珍しいのではないでしょうか。埋葬者それぞれの関係性は不明ですが、家族墳ではないかとも考えられています。
平群町の矢田丘陵側にある古墳は、椿井北古墳の切石を用いた石室や、椿井宮山塚古墳の天井石を用いない特殊な石室など、様々な姿の石室が見られます。

平群町は平群氏の本拠地といわれていますが、渡来系豪族と関係性をうかがわせる古墳も存在します。また西宮古墳は、聖徳太子の息子である山背兄皇子の墓との説もあり、上宮王家の勢力圏だった説も。

平群町は、一つの巨大な勢力が統一的な古墳を築いたのではなく、様々な勢力がそれぞれ個性を生かした古墳を造り上げていったのかもしれません。
まとめ

今回は、奈良県平群町にある「三里古墳」を紹介しました。石棚を利用して6人も埋葬されたという、珍しい古墳ではないでしょうか。石室の大半は失われていますが、奈良県北部に置いて唯一石棚が残る貴重な史跡といえます。
そんな訳で、三里古墳の紹介はこの辺で。次回はまた別の、石棚を持つ珍しい古墳を紹介します。
三里古墳詳細
古墳名 | 三里古墳 |
別名 | なし |
住所 | 奈良県平群町三里958番地 |
墳形 | 推定:前方後円墳 |
全長 | 推定:35m |
高さ | 不明 |
築造時期 | 6世紀後半 |
被葬者 | 不明 |
埋葬施設 | 横穴式石室(両袖式) |
石室全長 | 玄室:4.9m 羨道:4.9m |
指定文化財 | 奈良県の史跡: |
出土物 | 銀環、棗玉、ガラス玉、馬具、直刀、鉄鏃、刀子、須恵器、土師器、釘、中世土器 |
参考資料 | ・案内板 ・平群町史 ・ふるさとへぐり再発見12 |
案内板
県指定史跡
三里古墳
本墳は、石棚のある特異な横穴式石室を持つ古墳で、墳丘は原型がそこなわれているが、全長約30mの北向きの前方後円墳の可能性も考えられている。外部施設としては葺石があるが埴輪はみられない。昭和50年に横穴式石室の発掘調査が実施された。石室は南西に開口する両袖式で、天井石や側壁の大半を失っている。玄室の長さ4.6、幅2.4m、高さ約3m、羨道の長さ4.6m、幅1.4mで、奥壁に接して床から0.7mの高さのところに石棚が設けられている。石室の内には排水溝があり、玄室から羨道の中央を通り石室外に至っている。玄室内には組合式石棺の底石が、羨道部には箱式石棺があり、さらに鉄釘の遺存から、玄室、羨道にもそれぞれ木棺があったと推定されている。石室内から、銀環、棗玉、ガラス玉、馬具、直刀、鉄鏃、刀子、須恵器、土師器、釘、中世土器などが検出されている。
石棚をもつ横穴式石室は、近畿地方では和歌山県の紀ノ川流域など 限られた地域にみられるもので、奈良県下ではほかに紀ノ川上流の吉野郡下市町岡峯古墳、同郡大淀町槙ヶ峯古墳の2例が知られるのみで、本例の存在はきわめて注目される。なお、本墳の築造年代は、副葬遺物などから6世紀後半と推定される。
奈良県教育委員会