はい、今回は大阪府堺市にある「牛石古墳(うしいしこふん)」を紹介します。堺市の古墳といえば、世界文化遺産の百舌鳥古墳群が有名ですが、牛石古墳は少し離れた場所にあり含まれていません。
牛石古墳は名前の通り「牛が横たわる姿に似た石」があることが由来とされています。何がどうなったら牛が横たわる姿の石になるのか不明ですが、牛が横たわる姿の石があると聞いたからには見に行かずにはおれません。という訳で、その姿を確かめるべく大阪府堺市に行ってきました。
公園にある石でした
牛石古墳のある大阪府堺市に来ております。今回は、家族で堺市にある「荒山公園」へ梅を見るついで牛石古墳へ寄ることに。もちろん家族は、梅を見るだけと思っているので、古墳を見せられるとは思っていません。
ちなみに荒山公園は「こうぜんこうえん」と読みますが、知らなければ「あらやまこうえん」と読んでしまいます。もともと荒山公園は「多治速比売神社」の敷地でしたが、一部を堺市が取得して公園として整備されています。
多治速比売神社は、927年に編纂された延喜式神名帳に記載された由緒ある式内社。この神社も難読名ですが「たじはやひめじんじゃ」と読みます。
境内にある稲荷神には「鈴木貫太郎」と彫られた玉垣があります。これは太平洋戦争末期に首相として終戦に導いた、鈴木元首相が奉納したもの。
鈴木元首相は、1936年に起きた「二・二六事件」で襲撃を受けましたが、奇跡的に生き延びています。鈴木元首相は一命を取り留めたことを感謝し、のちに多治速比売神社に参拝したとのこと。ただ、玉垣には「海軍中将」とあるので、首相就任前に奉納されたものと思われます。
という訳で梅の鑑賞もそこそこに昼食をとり、牛石古墳のある「西原公園」へやってきました。口実としては食後の散歩に公園に行くと、なぜか古墳があるという作戦です。
公園の案内図を見ると「牛石古墳」と記載されていました。ただ古墳ファン以外は、行くことはないでしょう。
西原公園に着くやいなや、謎の茂みに突撃する私を見た家族は全てを察したようです。ありがとうございました。
牛石古墳の一帯には複数の古墳が存在していましたが、開発により失われています。現在周辺には、数基の古墳しか残されていません。
古墳のある茂みに突入したものの、墳丘は少し土が盛り上がっている程度のため、古墳感はありません。幸い近くに古墳の案内板があるため、かろうじて古墳と分かります。
牛石古墳は6世紀後半に築造された円墳と考えられていますが、未調査のため詳細は不明。規模も不明ですが終末期古墳のため、小型と思われます。
とりあえず墳丘の頂上らしきところに行ってみると変わった形の石がありました。これが、古墳名の由来にもなっている「牛石」のようです。
牛が横たわっているかといわれるとよくわかりませんが、神社にある「なで牛」ぽいビジュアルに見えなくもありません。一説によるとこの石は、横穴式石室の天井石ではないかといわれています。ただこの下に石室があるのか、この石だけ転がっているのかは不明。
石の上部には人為的な加工がされていますが、これが古墳の築造時にされたものなのかは分かりません。古くから石は露出していたようなので、後の時代に手が加えられた可能性もあります。
牛石古墳の被葬者については不明ですが、この一帯で須恵器生産にあたっていた氏族ではないかと考えられています。かつてこの地には、日本最大の須恵器生産地「陶邑窯跡群」が存在しました。
この一帯は古墳時代から平安時代にかけて日本最大規模の須恵器生産地であり、600~1000もの窯が存在しました。このことから、牛石古墳の被葬も須恵器生産集団の首長の墓ではないかと考えられています。この地では須恵器生産が長く続いたため、須恵器生産を司る有力者の墓も数多く造られのかもしれません。
そんな訳で謎の石を激写している不審者と同じと思われたくなかったのか、家族が先に行きだしました。とりあえず見捨てられそうなので、ダッシュで追いかけることにしました。
まとめ
今回は、大阪府堺市にある「牛石古墳」を紹介しました。牛が横たわる姿に似ているかどうかは微妙なところですが、石に施された加工がミステリアスな古墳ではないでしょうか。牛が横たわる姿に似た石が見たくてたまらない人には、オススメの古墳といえます。
そんな訳で、牛石古墳の紹介はこの辺で。次はまた別の、牛が横たわる姿の石がある古墳を紹介します。
牛石古墳詳細
古墳名 | 牛石古墳 |
住所 | 大阪府堺市南区桃山台1丁4 |
墳形 | 円墳 |
直径 | 不明 |
高さ | 不明 |
築造時期 | 6世紀後半頃 |
被葬者 | 不明 |
埋葬施設 | 横穴式石室(推定) |
出土物 | 不明 |
参考資料 | 案内板 |
案内板
牛石の名の由来は諸説あるが、この古墳の石室に用いられた天井石の地表に現れていた部分の形が、牛の横たわった姿に似ていたことからでてものとも言われている。発掘調査が行われていないので、遺物や遺構について詳しくはわからないが、後期古墳時代(6世紀後半頃)に作られた円墳で、周濠をまわりにめぐらし、横穴式石室を主体とするものと考えられる。なおこの古墳の被葬者については、地理的条件からこの地域で須恵器生産にあたっていた氏族と推定される。栂丘陵には、このような古墳が十数基みられたが、今では大半が失われており、この古墳も数少ない貴重な文化財である。