はい、今回は大阪府豊中市にある「梅塚古墳(うめづかこふん)」を紹介します。 一般的に公園にある古墳は、概ね2つのパターンに分かれます。
1.古墳を中心に公園として整備
2.近隣の古墳を公園に移設保存
その中でこの梅塚古墳は、公園造成中に見つかったけど、ぶっ壊されて断片だけが残ったという珍しいパターンの公園古墳です。
住宅地などの開発で古墳が壊されることはよくありますが、公園造成で古墳が壊される例はあまり耳にしません。そんな訳で、わずかに残された古墳の断片を確かめるべく、大阪府豊中市に行ってきました。
梅塚古墳とは
梅塚古墳のある、大阪府豊中市に来ています。今回は、家族を伊丹空港へ送迎したついでに見に行くことに。梅塚古墳は、大阪4大緑地(服部・鶴見・久宝寺・大泉)の一つである「服部緑地」内に存在します。服部緑地の面積は126.3haで、東京ドーム27個分に匹敵する広大な公園。ちなみに、大阪4大緑地という言葉は、初めて聞きました。
そんな服部緑地は、昭和初期に整備され始めたということもあり、所々に昭和感あふれる建物やオブジェが置かれています。
こちらのトイレも、ネーミングといい雰囲気といい昭和感があふれてるのではないでしょうか。
目的の梅塚古墳は、服部緑地のほぼ中心にある「円形花壇」にあるので、そちらに向かいます。入口から10分ほど歩いた所が服部緑地の円形花壇。円形花壇の近くには売店があり、店名が「エメラルダ」。オーナーは、松本零士のクイーン・エメラルダスのファンの可能性あり。
しかし、古墳らしきものが見つからず探していたら、看板が立てられた謎の盛り土を発見。
これで古墳は難易度が高すぎませんか?
案内板がなければ絶対に古墳とわかりません。周囲は石のタイルが敷き詰められ、わずかに盛り上がった土の周りも、石により固められています。ただでさえ僅かな封土に巨木が2本も立ち、もはや主役は木。
もともと梅塚古墳は、古墳時代中期の前方後円墳で、円筒埴輪が並べられていたとのこと。周囲には梅塚古墳以外の古墳も存在したようですが、現在は梅塚古墳のみが残されています。
梅塚古墳は、昭和初期頃に存在が確認されていましたが、昭和15年の緑地整備の際に損壊。その後昭和35年の円形花壇造成の際に墳丘がほぼ失われています。現在残されている部分は、前方部と後円部のくびれ部にある「造出し」の一部とのこと。
もともと造り出しはくびれ部の両サイドに存在しましたが、現在はその一つだけが残されています。古墳全体の大きさは不明ですが、何故か高さは10m以上あったと案内板に記されていました。葺石や周濠の有無は不明。周辺からは埴輪片が見つかっており、その特徴から古墳時代中期に築造されたと考えられています。もちろんこのような状態なので埋葬施設は不明ですが、時代的には粘土槨もしくは竪穴式石室ではないでしょうか。
服部緑地の西側を流れる「天竺川」対岸には、同時期に築造された「桜塚古墳群」が存在します。川と谷を挟んでいるため異なる勢力と思われますが、梅塚古墳と同じく前方後円墳がいくつか存在することから、この一帯は大和王権に近い勢力が納めていたのかもしれません。
案内板には「豊中市の指定文化財丈第十七号に指定されています。」と記載されていましたが、調べてみると、豊中市の指定文化財ではありませんでした。登録されていたものが取り消しになったのか、ただの勘違いなのかは謎。
折角なので古墳に上ってみましたが、見えるのは木と地面でなんの感想もでてきません。アラフィフのオジサンが謎の盛り土に上って地面を見つめている姿は、はたから見ると謎にしか見えないので、とりあえず帰ることにしました。
まとめ
今回は、大阪府豊中市にある「梅塚古墳」を紹介しました。かつては前方後円墳ということでしたが、現在のところ2本の木が生えた盛り土でした。もう少し気合を入れて残して欲しかったとは思いますが、逆になぜこの部分だけを残したのかというのも謎です。
そんな訳で、梅塚古墳の紹介はこの辺で。次回はまた別の、公園造成時にブッ壊されたけど微妙に残された古墳を紹介します。
梅塚古墳詳細
古墳名 | 梅塚古墳 |
住所 | 大阪府豊中市服部緑地1 |
墳形 | 前方後円墳 |
全長 | 不明 |
高さ | 現存時:10m以上 |
築造時期 | 古墳時代中期 |
被葬者 | 不明 |
埋葬施設 | 不明 |
出土物 | 埴輪片 |
指定文化財 | なし |
参考資料 | 案内板 |
案内板1
梅塚古墳
この古墳は、古墳時代(4~7世紀)中期のもので、周囲に円筒埴輪をめぐらし、両側に造出部のある東面の前方後円墳で、高さ10メートル以上もあったようです。現存の盛り土は、北側の造出部の一部です。豊中市の指定文化財丈第十七号に指定されています。
案内板2
梅塚古墳
梅塚古墳は、昭和の初めころの調査によって確認された古墳です。その当時の様子から古墳は、高さ10mを超える規模を持ち周りに円筒埴輪をたてに並べ、両脇に造り出しのある前方後円墳と推定されています。
昭和15年、大阪府による服部緑地建設工事によって大分部は消滅し北側のつくりだ渋部だけが残っていました。さらに、昭和34年の円形花壇の新設によって、現在、わずかな堆積土だけが残っています。また、周囲ではこの古墳に立て並べていた埴輪の破片が採集されています。
豊中市教育員会