はい、今回は兵庫県加古川市にある「具平塚古墳(ぐへいづかこふん)」を紹介します。その名の通り、具平親王(ともひらしんのう)が葬られていると伝わる古墳です。ただ宮内庁に比定されている訳でもなく、見た目は、田んぼと住宅地に囲まれた茂った盛り土にしかみえません。
そんな具平塚古墳ですが、不思議なことに古墳に触ると祟られるという伝説が残されています。触ると祟られる、高貴な人の墓かもしれない古墳と聞いたからには、見に行かずにはいられません。そんな訳で、具平塚古墳のある、兵庫県加古川市へ行ってきました。
具平塚親王とは
具平親王(964〜1009年)は、村上天皇の息子として知られています。村上天皇の子には男子が多く、具平親王は第7皇子でした。異母兄弟として冷泉、円融天皇が存在しますが、具平親王が皇位に就くことはありませんでした。主に文化面で活躍した人物で、いくつかの和歌が記録に残されています。
具平親王の子の資定王は、臣籍降下し源師房と改名。源師房は村上源氏の祖となり、後に久我家を称しました。この久我家の庶流からは、北畠家や岩倉家など後世の歴史に大きな影響を与える家を輩出しています。
具平塚古墳とは
具平塚古墳のある、兵庫県加古川市にきています。兵庫県下において、瀬戸内海側に接する市町村ではあまり多くの古墳は残されていません。その中でも加古川市は、数多くの古墳が残る地として知られています。ただ加古川市も沿岸部に現存する古墳は2基しかなく、具平塚古墳はその内の一つ。
具平塚古墳には駐車スペースがないので、徒歩5分ほどの場所にあるドラッグストアで買い物をしたついでに寄ることに。3分ほど歩き、住宅地と田んぼが広がる場所に具平塚古墳が存在しました。
完全に茂った盛り土
墳丘の裾は開墾と開発により削られているのか、かなり急角度。訪問時は冬でしたが、墳丘はかなりの茂り具合。具平塚古墳の現状は、直径約10mの円墳状ですが、方墳との説も。築造時期は古墳時代後期と考えられていますが、発掘調査が行われていないため、遺物や埋葬施設については分かっていません。
具平塚古墳は別名「朱見塚」とも呼ばれています。理由は不明ですが、古墳の石棺は「朱色」に塗られていることがあり、もしかすると、かつて朱色に塗られた石棺が存在したのかもしれません。
具平古墳から南東600mほどの野口町古大内に「具平親王神社」が存在します。社伝によると「具平親王は、鳥羽院の勅を奉じ1111年に古大内の地に移り鎮まった」といわれています。この地に具平親王がいたという記録から、具平塚古墳が具平親王の墓と伝わっているようです。
ただ、具平親王が活躍した時代は10世紀であり、この時期には古墳の築造は終了しています。そもそもこの具平塚古墳が古墳であるかも不明ですが、古墳であるとすれば具平親王の墓である可能性は低いでしょう。
そんな具平塚古墳には昔から「触ると祟られる」という言い伝えが存在します。その為、誰も触らないので草刈りもされていないとのこと。そんな祟りを恐れずに草を刈った人が後に亡くなったとか亡くなってないとか。このような理由から、現在も全力で草が茂った状態が維持されています。
そんな訳で、古墳に大接近していたらウッカリ古墳に触れそうに。祟られる訳にはいかないので、とりあえず帰ることにしました。
まとめ
今回は、兵庫県加古川市にある「具平塚古墳」を紹介しました。具平親王の墓と伝わる田んぼの中にある茂った盛り土でしたが、実際に具平親王の墓である可能性は低いと思われます。ただ、草を刈ったら祟られるという伝説が存在したからこそ、残ったのかもしれません。
という訳で、具平塚古墳の紹介はこの辺で。次回はまた別の、高貴な人の墓とされる、触ると祟られる古墳を紹介します。
具平塚古墳詳細
古墳名 | 具平塚古墳 |
別名 | 王塚、朱見塚 |
住所 | 兵庫県加古川市野口町良野 |
墳形 | 不明:方墳とも |
全長 | 現状:直径約10m |
高さ | 不明 |
築造時期 | 不明 |
被葬者 | 不明 |
埋葬施設 | 不明 |
石室全長 | 不明 |
指定文化財 | なし |
出土物 | 不明 |
参考資料 | 立て札 |
案内版
奈良時代の地誌「播州名所巡覧図絵」に「具平親王墓」として記載があり、世に「朱見塚」といったことが記載されている。