はい、今回は奈良県三宅町にある「寺の前古墳(てらのまえこふん)」を紹介します。寺の前古墳は、17基で構成される「三宅古墳群」の一つとして知られています。
三宅古墳群は、田んぼの中にポツンと残る古墳が多いのですが、寺の前古墳も例にもれず田んぼの中にポツンと存在しています。田んぼのなかにポツンと残された古墳と聞いたからには、見に行かずにはいられません。そんな訳で、奈良県三宅町にある「寺の前古墳」へ行ってきました。
田んぼの中にある古墳
寺の前古墳のある、奈良県三宅町に来ています。古墳巡りをするまで、奈良県に三宅町という場所があることを知らず、今回初めてこの地にやってきました。ちなみにナビを頼りに一般道で行きましたが、かなり狭い道を案内され泣きそうに。
町名の「三宅」は、かつて大和王権が直轄地として定めた「屯倉(みやけ)」が由来と考えられています。三宅古墳群には小型の前方後円墳が多いことから、被葬者は大和王権の屯倉管理者の墓なのかもしれません。
そんな訳で、三宅古墳群を巡りながら、寺の前古墳へ向かいます。寺の前古墳は、三宅古墳群の北部にあり、少し北側には全長200mの「島の山古墳」が存在します。ただ築造時期が離れているため、関係性は不明。
寺の前古墳は、墓地に隣接した場所に存在。古墳から少し東側にある「安養院」というお寺が「寺の前」の由来と思われます。ただ、お寺は東側を正面にしているので、どちらかというと寺の前ではなく、寺の後ろになってしまいます。まあ、そんなことはどうでもいいのですが…
ちなみに安養院にも、全長50mほどの前方後円墳が存在します。ただ墳丘上には安養院が建ち、周辺も墓地のため全く古墳感はありません。あまり墓地をウロウロするのもあれなので、寺の前古墳へ向かいます。
田んぼの中にある茂みでした
見事なほど田んぼの中に、ポツンと茂みが残されています。見た感じかなり小さく、開墾により墳丘は削平されているようです。寺の前古墳は、全長34m、高さ3.5mの前方後円墳。6世紀初頭に築造された古墳で、周囲には馬蹄形の濠が設けられていました。
古墳の手前には案内板が設置されているので、かろうじて古墳であることがわかります。しかしながら案内板の説明は、かなり簡単な内容。本格的な発掘調査は行われていないので、仕方ないのかもしれません。
明治時代に行われた調査により、円筒埴輪と家形埴輪破片、冑、須恵器が出土。埋葬施設は、花崗岩を用いた横穴式石室と考えられています。ただ何度も盗掘を受けたらしく、石室はかなり破壊されているとのこと。石室は外から確認することができなかったので、現在は埋め戻されているのかもしれません。
石室内部には、凝灰岩製の組み合わせ式石棺が置かれていたと考えられていますが、詳しいことは分かっていません。とりあえず、古墳の周りを一周してみます。こちらが南側から見た寺の前古墳。手前側がやや平たくなっている部分が、前方部のようです。
こちらが西側からみた古墳。茂みにしか見えませんが、なんとなく前方後円墳のような姿に見えなくもありません。全長34mということですが、現在はかなり全体的に小さくなっているのではないでしょうか。
こちらが、東側からみた寺の前古墳。どこから見ても茂みですね、お疲れ様でした。
そんな訳で、田んぼの中にある茂みを激写し続けても仕方がないので、とりあえず帰ることにしました。
まとめ
今回は、奈良県三宅町にある「寺の前古墳」を紹介しました。寺の前ではなく後ろにある古墳でしたが、寺の後ろ古墳にするとおかしな感じになるので仕方ないのかもしれません。田んぼの中にある茂みにしか見えませんが、ギリギリ古墳の姿を残しています。ただ、看板が無ければ古墳と思う人は少ないのではないでしょうか。
という訳で、寺の前古墳の紹介はこの辺で。次回はまた別の、寺の後ろにある田んぼの中にある古墳を紹介します。
寺の前古墳詳細
古墳名 | 寺の前古墳 |
別名 | ドングリ山 |
住所 | 奈良県磯城郡三宅町唐院399 |
墳形 | 前方後円墳 |
全長 | 34m |
高さ | 3.5m |
築造時期 | 5世紀後半~6世紀初頭 |
被葬者 | 不明 |
埋葬施設 | 不明 |
出土物 | 須恵器、円筒埴輪片、家形埴輪片、冑 |
参考資料 | ・案内板 ・大和の古墳を歩く |
案内板
三宅古墳群 寺の前古墳
三宅古墳群の中で「前方後円」の墳形が最も整った形で遺されており、墳丘と周濠が明らかで五世紀代後半のものとされている、明治初期には石室内に凝灰岩の石棺や多数の須恵器が埋没していたと言われている。
三宅町教育委員会