はい、今回は奈良県広陵町にある「牧野古墳(ばくやこふん)」を紹介します。牧野と書いて「ばくや」と読む難読名の牧野古墳は、押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえのみこ)の墓との説があります。
押坂彦人大兄皇子は、敏達天皇の長子であり、現在の皇室につながる人物として知られています。そんな高貴な方の墓と聞いたからには、見に行かずにはいられません。そんな訳で、奈良県広陵町にある「牧野古墳」へ行ってきました。
押坂彦人大兄皇子とは
押坂彦人大兄皇子の時代は、蘇我氏が皇室とつながりを深めつつありました。しかし押坂彦人大兄皇子は、蘇我氏とのつながりが薄かったこともあり、父である敏達天皇の崩御後は弟の用明天皇が継ぐことに。
その後も、崇峻、推古天皇と蘇我氏系の天皇が続き、押坂彦人大兄皇子が皇位に就くことはありませんでした。しかし非蘇我氏系の有力皇族として一定の力は有していたようで、都から離れた領地で過ごしていたと考えられています。
皇位に就くことのなかった押坂彦人大兄皇子ですが、子孫からは多くの天皇を輩出しています。息子の田村皇子はのちに舒明天皇として即位。また次男「茅渟王」の血筋からは皇極(斉明)天皇、孝徳天皇を輩出。この系統は天智、天武天皇へとつながり、現在の皇室の祖となります。
押坂彦人大兄皇子の墓について、延喜式では「大和国廣瀬郡の成相墓」に葬られたと記されています。廣瀬郡は広陵町全域を含んでおり、域内で皇族に相応しい規模の古墳として、牧野古墳が有力候補に挙げられています。
牧野古墳とは
牧野古墳のある、奈良県広陵町に来ています。牧野古墳の石室は、普段柵があり入ることができません。今回は年に数回行われる、石室の一般公開に合わせて見に行くことにしました。
公開開始時間より20分ほど早く到着しましたが、すでに待っている人がいました。
牧野古墳は公園として整備されているので、開始までブラブラと公園内を散策することに。この公園の北東には、石棺の一部が保存されています。ただ、この石棺は牧野古墳のものではなく、2kmほど東にある「文代山古墳」のものと考えられています。
元々は水路の橋に利用されていましたが、不要になったため、この場所に保存されたとのこと。ベンチみたいな扱いになっており、知らない人は座ってしまうのではないでしょうか。ちなみにこの一角は、唯一遊具のある場所ですが、遊ぶ子供が少ないのかシュールな感じに仕上がっていました。
時間が近づいてきたので受付に向かうと、5名ほど集まっていました。ちなみに私はアラフィフですが、最年少だったと思います。一般公開では、地元ボランティアの方がパネルを使いながら、分かりやすく解説。あまり一般公開などに参加したことがないため、とても新鮮です。
牧野古墳は、6世紀末に築造された直径約55m、高さ13mの円墳。尾根の先端に3段築造され、2段目に南向きに開口する横穴式石室が築かれています。
花崗岩の巨石を用いた石室は、全長17.1mの規模。奈良県においてトップクラスで、石舞台古墳に匹敵するとのこと。という訳で、中に案内していただきます。
こちらが玄室に続く羨道部で、長さ約10m、高さ約2m、幅約1.8m。一部破壊されていますが、それでも良好に残っています。
玄室を見上げると、巨大な天井石に圧倒。写真では伝わりづらいですが、入口からは想像できないほど広い空間が広がっています。まさに皇族の墓として相応しい石室ではないでしょうか。
そして正面に置かれているのが、被葬者が納められていた石棺。
なぜか卒塔婆!
卒塔婆の存在が一気にお墓感を高めます。いや、ちょっと恐いんですけど…
玄室は、長さ7m、幅3.3m、高さ4.5m。地面には石の礫(つぶて)が敷かれ、壁面に沿って排水溝が巡っています。構造的に崇峻天皇の真陵と考えられている「赤坂天王山古墳」と類似性があるのも、皇族の墓とされる根拠の一つ
石室内には刳抜家形石棺が1基置かれていますが、手前にも組合せ石棺が存在したと考えられています。同時に埋葬されたようですが、被葬者の関係性は不明。
奥の刳抜家形石棺は、凝灰岩を用いて造られており、奥壁に対して平行に設置。盗掘により、身と蓋の一部が破損。石棺内からは、馬具、鉄鏃、銀装大刀、ガラス小玉、桃核などが副葬品として見つかっています。
手前に置かれていた組合せ石棺は、隣の刳抜家形石棺と平行に置かれていたと考えられています。盗掘により完全に破壊されていますが、細片が確認。組合せ石棺の近くからは、馬具、鉄鏃、須恵器、山梔玉(くちなしだま)が見つかっています。
刳抜家形石棺は石を刳り抜いて作成するもので、組み合わせ石棺は複数の石板を組み合わせて作成します。刳抜家形石棺のほうが大きな労力を必要とすることから、刳抜家形石棺の被葬者が組み合わせ石棺の被葬者よりも身分が高かったと思われます。
石室規模、刳抜家形石棺の使用、豊富な副葬品から考えると、皇族クラスの古墳であった可能性は非常に高かったのではないでしょうか。
ちなみに牧野と書いて「ばくや」と読むことについて、ボランティアさんがおっしゃっていた説としては、元々この辺りの地名が「ばくや」と呼ばれていたこと。そして古代このあたりは馬を飼育する牧場があったことから当て字として「牧野」が使われたのではないかとのことでした。
牧野古墳は普段入ることができませんが、一般公開以外にも広陵町に見学申請をすれば中に入ることができるそうです。巨石が圧巻の石室なので、興味がある方は一度訪れてみてはいかがでしょうか。
まとめ
今回は奈良県広陵町にある「牧野古墳」を紹介しました。皇族クラスの石室というだけあり、巨石を用いた圧巻の古墳でした。卒塔婆が置かれているのが何気にホラーでしたが、石棺も残されており見応えは充分です。なかなか見ることができない石室なので、機会があれば見ておきたい古墳といえるでしょう。
という訳で、牧野古墳の紹介はこの辺で。次回はまた別の、高貴な人物が埋葬された巨大石室を持つ古墳を紹介します。
牧野古墳詳細
古墳名 | 牧野古墳 |
住所 | 奈良県北葛城郡広陵町馬見北8丁目6−4 |
墳形 | 円墳 |
直径 | 48-60m |
高さ | 13m |
築造時期 | 6世紀末 |
被葬者 | 推定:押坂彦人大兄皇子 |
埋葬施設 | 横穴式石室 |
国の史跡 | 1957年6月19日 |
出土物 | 金銅装の馬具、武具、装身具、土器等 |
参考資料 | ・案内板 ・牧野古墳パンフレット |
案内版
丘陵の南斜面に築かれた円墳で、径約五五メートル、高さ一三メートル、南面に横穴式石室が開口している。石室は巨大な花崗岩を使用して構築している。羨道は長さ一〇メートル、高さ二.〇メートル。幅一.八メートル、玄室は長さ七.〇メートル、幅三.三メートル、高さ四.五メートルに及ぶ。現室内には刳抜家形石棺があり、また組合せ石棺もあったが完全に破壊されていた。石室内は盗掘されていたが、金銅装の馬具、武具、装身具、土器等の副葬品が多量に残されていた。当古墳は馬見丘陵では数食うない横穴式石室を有する古墳として重要であるばかりでなく、県下でも最大級の巨大な横穴式石室として学術上極めて貴重な古墳である。なお古墳の被葬者は敏達天皇(五三八〜五八五 即位五七五〜五八五)の皇子、押坂彦人大兄皇子であろうする説がある。