はい、今回は奈良県桜井市にある「谷首古墳(たにくびこふん)」を紹介します。古墳名に谷とか首とかつき、何となく怖い雰囲気を感じてしまいます。
何故このような名前になったのか分かりませんが、谷感や首感がある雰囲気の古墳に違いありません。そんな訳で、谷感と首感を感じるべく、奈良県桜井市に行ってきました。
谷首古墳とは
谷首古墳のある奈良県桜井市に来ています。桜井市は奈良県内でも特に古墳が多く、かなり巡り甲斐があります。
谷首古墳は、桜井市西部にある阿倍丘陵に存在。この丘陵地には、文殊院西古墳や艸墓古墳などの有名な古墳が存在しているので、それらを巡りながら谷首古墳へやってきました。
谷首古墳の周辺は住宅地になっており、比較的訪れやすく明るい雰囲気。立地的には谷感は全くなく、斜面感しかありません。
この谷首古墳の上部には「八幡神社」が建てられており、神社の創建時に古墳の一部が削平。祭神である八幡神は、奈良時代以降に祀られるようになった神様なので、谷首古墳と八幡神社には直接的なつながりはないと思われます。
ちなみにコロナ禍の時期だったため、狛犬にはマスクがつけられていました。これがなかなか可愛くていい感じ。
神社の本殿が建つ場所が、谷首古墳の墳頂となります。本殿脇がこんもりとしており、上から見ると石室が見えています。
神社から降りてすぐ東に、谷首古墳の横穴式石室が開口。
開口部は巨石がむき出しになっており、なかなかの迫力を感じます。ただ見た感じは、谷感も首感もありません。
案内板を読んでみると、別名「谷汲古墳」とも呼ばれているとのこと。元々この場所は「阿倍字谷汲」という地名だったようで「谷汲」が「谷首」になまったようです。
なので谷感はともかく首感が全くないのは仕方ないかもしれません。しかし何故、物騒なほうになまったのかは謎。
谷首古墳は、7世紀初頭に築造された東西35m、南北38m、高さ8.2mの方墳。埋葬施設は南側に開口した横穴式石室を有しています。
入口には巨石が用いられていますが、なぜか大きく傾いています。桜井市観光協会のホームページには、入れると記載されているのでカジュアルに中に入られるようです。しかし崩れてこないか、一抹の不安を感じるビジュアル。とりあえず崩れてこないと信じて石室内に入ってみます。
こちらが玄室に続く「羨道」部分。石室が露出している古墳は、羨道が失われていることが多いのですが、谷首古墳の羨道は比較的良好に残されています。
羨道は、長さ約7.8m、幅1.7m、高さ1.8mで、大人が少しかがんで歩けるスペース。天井を見てみると4枚の巨石が用いられていました。
さらに奥に進み玄室に入りますが、羨道が長いため奥まで光が届かず内部は、かなり暗め。スマホのライトではうまく撮影できませんでした。
玄室は、長さ約6m、幅約2.8m、高さ約4mとかなり広め。天井石には2枚の巨石が用いられています。
玄室の床面には「礫(小石)」が敷かれていたようですが、暗くて確認できず。すでに盗掘され、棺や出土品はありません。ただ、凝灰岩の破片が見つかっていることから、石棺が納められていたと考えられています。
被葬者は不明ですが、この一帯に勢力を有していた「阿倍氏」の墓ではないかと考えられています。阿倍氏は、孝元天皇の皇子「大彦命」を祖と称する一族で、古くから大和王権に仕える名族として知られています。
阿倍氏からは、蝦夷征伐を行った阿倍比羅夫や、平安時代に中国で活躍した阿倍仲麻呂などを輩出。陰陽師として有名な安倍晴明も、阿倍氏の末裔と考えられています。
谷首古墳のすぐ北西にある「文殊院西古墳」は、大化の改新後に左大臣となった「阿倍内麻呂」ではないかと考えられています。谷首古墳も阿倍氏に連なる人物の墓なのかもしれません。
石室内は広く迫力があるのですが、いかんせん明かりが無いと真っ暗で一人でいるとかなり不安になってきます。そんな訳で、段々とビビりが入ってきたので、ダッシュで帰ることにしました。
まとめ
今回は、奈良県桜井市にある「谷首古墳」を紹介しました。谷感も首感も全くない古墳でしたが、巨大な石室が圧巻の見応えのある古墳ではないでしょうか。
アクセスもよく石室にも入りやすいので、カジュアルに石室を見たい方にはオススメの古墳です。カジュアルに石室に入りたい人に会ったことがないのでわかりませんが。
そんな訳で、谷首古墳の紹介はこの辺で。次回はまた別の、谷感や首感がありそうでない古墳を紹介します。
谷首古墳詳細
古墳名 | 谷首古墳 |
別名 | 谷汲古墳 |
住所 | 奈良県桜井市阿部802 |
墳形 | 方墳 |
一辺 | 東西35m 南北38m |
高さ | 8.2m |
築造時期 | 7世紀初頭 |
被葬者 | 推定 :阿倍氏 |
埋葬施設 | 横穴式石室 |
県の指定史跡 | 1958年3月20日指定 |
出土物 | 凝灰岩片 |
参考資料 | 案内板 |
案内板
史跡 谷首古墳
昭和三十三年三月二十日指定
寺川の左岸、多武峰から北に伸びる丘陵の北端、阿部丘陵の西辺に位置する。標高一〇〇m前後の地点にある方形墳で、谷汲古墳とも呼ばれている。墳丘の各辺は方位とほぼ一致し、規模は現状で、東西約三五m、南北約三八m、高さ約八.二mである。墳頂部には八幡神社の本殿と拝殿があり、墳丘西側は古墳築造当初の形状を保っていない。
埋葬施設は南に開口する両袖式の横穴式石室であるが、東側の袖が非常に短く、片袖式ともいいうる。石室の規模は玄室長約6m、幅約二.八m、高さ約四m、羨道長約七.八m、幅一.七m、高さ一.八mである。石室は花崗岩の巨石を用いて築かれており、奥壁二石、玄室天井石二石、羨道天井石は四石からなる。
石室内は礫が敷かれており、凝灰岩の細片も見つかっているので、石室内には石棺がおさめられていたようである。古墳の作られた年代は、石舞台古墳や赤阪天王山古墳との比較から六世紀末葉から七世紀初頭頃と推定されている。
平成二年三月
奈良県教育委員会